X'masとそれからのこと

 あかりちゃんはママのエプロンを引っつかみ、泣きわめいていた。
「あかりクマさんがいいの! なんでクマさんじゃないの? ねぇママぁ! サンタさん間違えちゃったの? あれクマさんじゃないんだよぉ? ねぇママぁ……」
 今日は十二月二十五日。クリスマス。毎度おなじみお楽しみデーだ。あかりちゃんは今日という日を三ヶ月も前から待ちわびていた。三ヶ月前はあかりちゃんの誕生日。そのときは女の子の人形を買ってもらい、そしてあかりちゃんは森のクマさんの歌が大好きだったのだ。
「よしよし……サンタさんも間違えちゃうことがあるのよ……きっと……」
 ママはあかりちゃんの泣き顔を見て大変に困っていた。今朝珍しくあかりちゃんが早起きをした次の瞬間から、こうやってママのエプロンを引っ張り続けているのだ。これじゃあ朝ごはんの支度がスムーズに進行しないのだった。
「ねぇ、あかり? あのぬいぐるみじゃだめなの? あれだって十分かわいいと思うんだけどなあ」
「だめなの!」
 あかりちゃんはママのエプロンから手を離し、お布団へ飛んでいき、びりびりに破かれた包装用紙とわずかに繋がっている茶色いぬいぐるみを持ってきた。丸くて愛らしい二つのお目目と、大きくて立派な鼻、それから顔の周りのぎざぎざヘアー。それはライオンのぬいぐるみだった。
「ねぇ、あかり? あかりはライオンも好きだったでしょう? クマじゃなくてもいいんじゃない? ほら、かわいいじゃない」
 ママはそのぬいぐるみを見て穏やかにいった。けどあかりちゃんは渋面だ。あかりちゃんはぬいぐるみをママに投げつけた。
「いやだもん! ライオンなんていや! クマさんがいいの! クマさんじゃなきゃいやなの!」
 そこへスーツ姿のパパが現れた。パパはあかりちゃんの叫び声を十五分も前から聞いていたのだが、朝の忙しさにかまけて目をそらし続けていた。しかしそれもここまでだった。朝の食事がまだだったのだ。
「ママ、ごはんは……」
 パパが遠慮がちにママに声をかけた。しかしママはそんなパパの姿を見て、きつい目つきになった。そのあと口パクでなにかを伝えようとする。パパは両手をあわせた。あかりちゃんは投げつけたライオンを取りにいって、パパにそれを見せ付けた。
「パパぁ……サンタさんが間違えちゃったの……」
 パパはライオンを見て、あかりちゃんを見て、ママを見た。それから、あかりちゃんに視線を戻した。
「あ、ああ、あかり……それはだね、ええと、じつは」
「パパ」とママがパパの話をさえぎった。
 あかりちゃんはやがて目に涙を浮かべて、パパに近づいた。
「パパぁ……あかりね、あかり、クマさんが欲しかったの……でもこれはライオンさんなの……ねぇパパぁ……サンタさん、どうして間違えちゃったのかなぁ……」
 パパはあかりちゃんの痛ましい姿を見て、やりきれない気持ちになった。
「よ、よし、あかり。今日パパがクマさんの大きなぬいぐるみを買ってきてあげるよ!」
「ほんと!?」あかりちゃんが目を輝かせた。「パパほんと!?」
「だめよ」ママがいった。「だめ、だめよ、パパ。うちにそんなお金ないの知ってるでしょ? それにそんな簡単に買ってあげたらわがままになっちゃうわ」
「で、でもさぁ、あかりが可哀想じゃないか」
「パパぁ?」
 ママが怖い顔になった。パパは惨めな顔になった。
「そ、そうだね、やっぱりだめだね」
「いや!」あかりちゃんが叫んだ。「あかりクマさんがいいの! クマさんじゃなきゃいやなの! ねぇパパぁ! 買ってきてよぉ! クマさん買ってきてよぉ!」
 それからあかりちゃんは手のぬいぐるみを床に放り出して泣きわめきだし、ママはお味噌汁を味見しながらパパをにらみつけ、パパは腕時計を気にしながらしどろもどろになった。
 そんなときだ。家の電話がうるさく鳴り響いた。パパはしめたと思ってリビングにある電話に飛びつき、きちんとしつけされたあかりちゃんは泣き声をちょっぴり弱めた。
「はい、はい、そうです、そうです……え?」
 パパが電話口で素っ頓狂な声を上げた。ママが不審に思って顔を向ける。パパはまばたきを繰り返して、ママを見やった。それからママみたいに口パクでなにかを告げる。ママは首をかしげて、コンロのスイッチを切り、パパに近づいた。あかりちゃんもそんな二人の様子を見て、ゆっくりと泣き止んだ。
「ええと、これはなにかのご冗談ですか?」
 パパがいった。ママが耳を受話器に近づける。相手の声が返ってきた。
『はっは、まさか! これはちゃんとした案件ですよ、ご主人』
 相手の声はおおらかでとても優しげな声だった。
「いや、しかし、こちらとしてはなんのことやらさっぱりなんですが……」
 パパはハンカチで額の汗をぬぐった。
『はっは、それはこちらとしても重々承知していますよ!』
「はあ」
 パパと相手のよくわからないやりとりに業を煮やしたのか、ママがパパの袖を引っ張った。
「いったいどうしたの?」
 ママの問いかけにパパは肩をすくめることで返事をする。そして相手の声が続いていた。
『まぁとにかくご主人、安心してお待ちしていてくださいね。ああ、それからお子さんにも謝っておいてください。がっかりしてるでしょうからね。それでは、また今夜に!』
 それから、ガチャンと電話の切れる音がした。パパは不審げに受話器を見つめ、それをもとあった場所に置いた。
「ねえどういうこと?」
 ママが聞いた。
「よくわからないよ」パパが首を振った。「サンタがどうとか言ってたけど……」
「サンタさん!?」あかりちゃんが叫んだ。「さっきのサンタさんなの!?」
「あかりはちょっと向こうに行ってなさい」ママがあかりちゃんをたしなめた。「それでパパ、いまのなんだったの? なにかのいたずらじゃないの?」
「うーん」パパがうなった。「そうかもしれないな。なんだかインチキくさかったし。プレゼントを間違えたから代えに来るとかなんとかいって――」
「サンタさんなんでしょ!?」あかりちゃんが歓喜の声を上げた。「やっぱりサンタさん間違えちゃったんだ! クマさん持ってきてくれるんだ!」
「ちょっとあかり」ママが困った顔になった。「それは……ええと、違うわよ」
「なんで?」あかりちゃんには疑いの色がまるきりなかった。「ぜったいサンタさんだよ! サンタさんが間違えちゃったから電話したんだよ!」
 あかりちゃんはそういってから、飛び跳ねるようにしてリビングへ来て、リモコンを駆使してテレビを点け、お気に入りの番組を探し始めた。ママはそんな様子を見てため息をつき、パパをにらんでから、朝ごはんの用意を再開した。そしてパパはなんとなく気まずい思いをしていた。それはこれから始まる休日明けの仕事に対してのものだったのかもしれない。あるいは違うかもしれない。とにかくそんな風にしてクリスマスの朝が過ぎていった。
 そして夕方。雨が降り、空が暗くなった。雨足は強まるばかりだったが、あかりちゃんの期待はそれを上回る勢いで上昇中だった。
 あかりちゃんは幼稚園から帰ってきて、大好きな森のクマさんの歌を熱唱していた。そのキンキン声とハーモニーのように合わさる雨音を聞きながら、ママは夕飯の準備をしている。今日のメニューは白いご飯に味噌汁、そして適当に焼いたステーキと適当に和えたサラダだ。ママは適当という言葉が大好きだった。だから今朝の出来事は頭の片隅に追いやられていて、あかりちゃんの大きすぎる期待に気がつくことがなかった。
「ねぇママぁ! サンタさんいつ来るのかなぁ?」
 あかりちゃんが突然いった。ママは気軽に返事をした。
「そのうちじゃない? もうすぐよもうすぐ」
「もうすぐってなんじー?」あかりちゃんが聞いた。
「九時とか」
「いまはー?」
「四時ぐらい」
「あとなんぷんー?」
「ひゃっぷんぐらい」
「まだかなー」
「もうすぐよもうすぐ」
「はやくこないかなーサンタさん」
 あかりちゃんはそういうと再び森のクマさんを歌い始めた。ママはたまねぎと格闘している最中だった。だから先ほどの会話のことは右から左へときれいに流れ去っていた。そしてママは、たまねぎを切り終えてから思い出した。
「いけない、お風呂がまだだった!」
 それから一時間ぐらいが過ぎて、パパが帰ってきた。あかりちゃんが迎えに出た。角が擦り切れた黒いカバン以外のものをパパは持っていなかった。しかしあかりちゃんはがっかりすることなくそのカバンを預かった。ママはそういうことをしないから(ママはパパのカバンに触れたことすらなかった)、こういうことはあかりちゃんのお仕事なのだった。
「サンタさんいつくるかなー」
 あかりちゃんが満面の笑みでパパに聞いた。
「え?」パパはまるで目の前でいきり立った野良犬を見つけたときのような顔つきになった。「あ、え、えーと……うん、そのうち、かな」
「そのうちっていつー?」
「えーと、九時ぐらい?」パパがママとおんなじことをいう。「あ、いやでも、来ないかもしれない……」けれど少しはママより適当ではなかった。
「え……」あかりちゃんがパパのカバンを落とした。「でも、サンタさんから電話あったんでしょ? サンタさん来るんでしょ? クマさん持ってきてくれるんでしょ? ねぇパパぁ……サンタさん来るんじゃないのぉ……?」
「う、うん」パパはぎこちなくうなずいた。「来る、来るよ、ぜったい――」
「パパ!」ママが現れた。「そんな風に簡単に言わないで!」
「あ……ママ」パパの頬が引きつった。「い、いや、これはその」
「そうやってなんでもかんでもうなずくのやめてっていつも言ってるでしょ? 子供はなんでも信じるのよ? それで違ってたらどれだけ傷つくと思ってるのよ。あなたからちゃんと言ってやって。ちゃんとあかりに本当のことを」
「ほ、ほんとうのこと?」パパの顔色が悪くなった。「そ、それは」
「でもママぁ……」あかりちゃんがいう。「さっきママもサンタさん来るっていってたよぉ? くじに来るって……サンタさん来るんでしょう……?」
「え」ママがあかりちゃんを見た。「わた――ママ、そんなこといったっけ?」
「うん」
「はっは」パパの顔色がよくなった。「どういうことだい、ママ」
「え」ママがパパを見た。「いや、わたしはそんなこといったおぼえは……」
「あかり」パパがあかりちゃんにいった。「ママ、なんていった?」
「くじに来るって」
「ママ?」
「あ、あれ? わたし……あれ?」
「ママ?」
「ねぇサンタさんはぁ?」
「ああ、お風呂。パパお風呂」
「ママ?」
「サンタさんはぁ?」
「お風呂お風呂」
『ピンポーン』
 チャイムの音だ。三人は口を閉じた。雨音が響き渡る中、パパとママは顔を見合わせる。あかりちゃんは顔を輝かせた。
「サンタさんだ!」
 あかりちゃんが玄関に飛んでいった。
「ちょ、ちょっとあかり!」
 ママが慌てて追いかけていった。
「まさか」
 パパもだ。
 玄関ではあかりちゃんがちいちゃな体を伸ばしてドアノブを回そうとしていた。ママがそれを阻止する。あかりちゃんがじたばたした。ママはドアについている小さな穴から外をのぞいた。
 サンタクロースだった。
 ママが絶句した。あかりちゃんはその隙をついてドアノブを回した。
「メリー・クリスマース!」
 サンタさんが玄関に入ってくるなりそう叫んだ。ママは呆然と突っ立っている。あかりちゃんは満面の笑みでサンタさんを出迎えて、雨で濡れた赤い足にすがりついた。
「サンタさん! クマさんはぁ!?」
「おやおや。待ってておくれよ、お譲ちゃん」サンタさんが白ひげに覆われた口をにいっと動かした。それからママを見る。「おっと奥さん、どうしたんです? 顔色が悪いですよ?」
 ママは口をパクパクさせた。サンタさんがそれを見て、首をかしげる。そのあと奥に隠れていたパパの姿を認めた。パパはびくりと体を震わせる。それからおずおずと出てきて、口を開いた。
「あ、あのぉ……おたくは、どちら様で?」
「はっは! なにをいうんですご主人。サンタクロースですよ! メリー・クリスマース!」
「めりー・くりすまーす!」
 あかりちゃんが追随した。
「ちょ、ちょっと待って」ママがようやく口を開いた。「あ、あなたはだれなんですか」
「奥さん」サンタさんが気の毒そうな顔でいった。「お気持ちはよくわかります。ですが、とにかく話を進めましょうよ」
「は、はなしっていったって」
「さ!」サンタさんがあかりちゃんに向き直った。「サンタさんをご招待しておくれ!」
「うん!」
 あかりちゃんに連れられて、サンタさんが家の中にずかずかと乗り込んでいく。それを見送ってから、パパとママは顔を見合わせた。
「ちょ、ちょっと」ママがささやいた。「これ、どういうつもりなの? あなたが仕組んだんでしょ?」
 パパが目を丸くした。「まさか! これは君が仕組んだことなんだろ?」
「違うわよ!」
「ぼ、ぼくじゃないからな!」
「じゃああれはなんなのよ!」
「知らないよ!」
 そこでママがはっとなった。
「どうしたんだ?」
 パパが聞く。
「まさか……」ママの唇がわなわなと震えた。「こ、これって……ゆうかい!?」
 そういうなりママは疑惑のサンタのあとを追いかけていった。パパはまばたきを繰り返して、しばらくそこで突っ立っていた。それから一言。
「そんなまさか!」
 パパはしばらく半信半疑でいたが、次第に不安になってくるのを実感した。それからパパはあやふやな記憶を手繰り寄せた。そういえば現実にサンタクロース関連の事件があったような気がする。いや、あったはずだ。サンタクロースの格好をして小さな女の子にちょっかいを出した事件。幸い事件はそれ以上発展しなかったが、もしそれが悪い方向に進展していたとしたら、あるいは連れ去られるところまでいっていたかもしれない。パパはそこまで考えて、不安が爆発した。そしてそのまま叫んだ。
「あかり!」
「あかり!」
 ママはリビングに駆け込むなりそう叫んだ。しかしリビングには誰もいない。ママは無我夢中で奥のキッチンにまで飛んでいった。そこにもあかりちゃんの姿がなかった。慌てて寝室も見る。そこもいない。ママは心臓が高鳴っているのに気がついた。そのあと首を振る。まさか。ママは思った。まさか、人が消えるだなんてありえない!
 ママはリビングから続いているベランダに向かった。玄関前はママとパパがいたのだから、サンタクロースが逃げるとしたらベランダだと思ったのだ。ママはそこらに転がる雑誌やらドライヤーやらを蹴飛ばしながらベランダに近づいて、窓を開けようとそれをがちゃがちゃとやった。しかし開かない。ママはパニックになった。頭が真っ白になる。その場に崩れ落ちた。
「あかり!」
 パパの叫び声が聞こえた。ママは我に帰った。パパがリビングに入ってきたのだ。ママは蒼白な顔でパパを見やった。パパがうなずいた。
「あかりは」
 ママは窓に視線を戻した。パパがママと同じように窓をがちゃがちゃと動かした。やはり開かない。しかしパパは冷静だった。鍵がかかっているのに気がついたのだ。それを外してから一気にベランダに出る。ママも遅れてベランダに出た。雨が降り、空が暗い。そこにはだれもいなかった。二階のベランダだった。
「あかりはどこだ!?」
 パパが叫ぶ。ママは力なく首を振った。
「あのサンタに――」
「まだだ!」
 ママは驚いてパパを見た。パパらしくない姿だった。
「で、でも――」
「あかりは大丈夫だ! まだ間に合う!」
 パパはそういうとリビングに戻り、電話を手に取った。ママはそんなパパの姿を見て、なんだか気持ちが大きくなったような気がした。パパがいれば、あかりは戻ってくる。大丈夫だ。パパになら、任せられるはず。そう思ってから、パパのあとを追った。
 そしてパパはちょうど一一〇番を押し終えたところだった。後ろのママを見て、力強くうなずく。そして電話が繋がった。
「もしもし、警察ですか!」
 パパの鬼気迫る調子に、相手が息を呑む気配を見せた。
「娘が、娘がさらわれたんです!」
『と、とにかく落ち着いて』
「今朝の電話が、さっき来て、娘をさらって行ったんです!」
 パパは現場の状況を冷静に説明しようとしたが、口から出てくる言葉はどれも不明瞭なものばかりだった。ママがパパの袖をつかむ。事態は緊迫しているのだった。
「だから娘が!」パパが叫んだ。「サンタクロースに!」
「サンタさん?」
 突然、どこからか声がした。パパは声を失い、ママはとっさに振り返った。
 あかりちゃんだった。
「あ、あかり!」ママが叫んだ。「あかり!」
「どうしたのママ?」あかりちゃんが天真爛漫そのものといった顔つきでいった。「サンタさんがどうかしたの?」
「あかり!」
 ママがあかりちゃんに抱きついた。パパは受話器を落として、腰を抜かした。
「ママぁ、痛いよぉ」
 あかりちゃんが嬉しそうにいう。
「あかり、あかり、あかり、あかり」ママがあかりちゃんの頬を自分の頬でぐりぐりと押し付けた。「よかった、よかった、よかった、よかった」
「あ、あかり」パパがようやく口を開いた。「さ、サンタは……?」
「そうだ!」あかりちゃんがママの胸を押しのけた。「見て、これ! クマさんだよ!」あかりちゃんはそういって、手に持っていたクマのぬいぐるみを誇らしげに掲げてみせた。「サンタさんが持ってきてくれたんだよ! やっぱりサンタさん間違えちゃったんだって! ライオンさんとクマさんを間違えちゃったんだって!」
「え」ママが口をあんぐりと開けた。「そんな、まさか――」
「じゃ、じゃあサンタさんは?」パパがいった。「サンタさんは、いま、どこに……?」
「帰っちゃった」あかりちゃんがにっこりと笑った。「忙しいんだって。いっぱい間違えちゃったから、いっぱい行くとこあるんだって」
「で、でも、だって!」ママが首を振った。「だって、いなかった!」
「いなかった?」あかりちゃんが不思議そうにママを見た。「なにが?」
「あ、あかり」パパがいう。「あかりとサンタさんは、いままでどこにいたんだ?」
「おトイレ」
「へ」ママが息を呑んだ。「と、トイレ……?」
「うん」あかりちゃんがうなずいた。「サンタさんがおしっこしたくなったの。それであかりが案内したの!」
「ま、ママ」パパがいった。「トイレは見て……ない、よね」最後はママの表情を見ていった。
「だ、だって!」ママが叫ぶ。「誘拐犯が、トイレだなんて!」
「そ、それで」パパがあかりちゃんに向かっていった。「あかりは、何か聞こえなかったの? パパやママの声とか」
「ううん」
 あかりちゃんは首を振った。そこでパパは、はっとひらめいた。
「かぎ……」
 パパは窓の鍵のことを思い出した。誘拐犯がベランダから逃げたとしたら、鍵はかかっているはずがない。鍵を外さなければ外に出られないというのは、子供だって知っていることだ。それに外の雨。雨音は今も響き渡っている。あるいはあかりちゃんがパパとママの叫び声を聞かなかったのも、わからないわけでもなかった。
 しかしパパは念を押してみることにした。
「じゃ、じゃああかりは、なにをしていたの?」
「クマさん!」あかりちゃんが嬉しそうに叫んだ。「クマさんのお歌を歌ってたの!」それからあかりちゃんはもう一度クマのぬいぐるみを掲げてみせた。「クマさん! あかり、クマさんのお歌が大好きなの!」
 こんな風にして、クリスマスは過ぎていった。あかりちゃんは何度も森のクマさんの歌を歌い、パパとママはそれに付き合わされた。クマさんのぬいぐるみと女の子のお人形、それからライオンのぬいぐるみが一緒になって、家の中を歩き回った。あかりちゃんはご満悦で、パパとママはなんだかほっとするやらむずむずするやら複雑な心境で、あかりちゃんとクマさんたちの行進を温かく見守った。
 しかし疑問が一つ残ることとなった。
「ねぇパパ?」
 ママがあかりちゃんの微笑ましい様子を見ながら、パパにいった。うん? とパパがママに目を向ける。ママはそんなパパの横顔を見て、頬が赤らむのを感じた。今日の事件を通して、ママはパパのかっこよさを再発見した気持ちだった。でも聞くべき事は忘れなかった。
「あのサンタクロースはいったいなんだったと思う? 信じられない話だけど、現実にこうやって家に来て、パパが間違えたライオンのぬいぐるみの代わりにクマのぬいぐるみを持ってきてくれた。もしかしたらあれは、本当のサンタさんだったのかしら」
 その言葉にパパは驚いて、ママを見つめた。
「な、なによ」
 ママが視線をそらす。しかしパパはそんなママを見つめ続けた。ようやくママはその不可解さに気がついて、パパに視線を戻した。
「どうしたの?」
「ぼくじゃない」パパがいった。「ぼくじゃないんだ」
「な、なにが?」
 ママがいぶかしげにパパを見た。パパは慌てたようにそこから離れて、なにかを持ってきた。パパのカバンだ。ママはそれを見て、パパを見た。
「それが、どうかした?」
 パパはママの言葉を無視して、カバンを開ける。そしてそこからなにかを取り出した。よくある記念品のような、茶色の小さな物体。それがクマのぬいぐるみであるというのに、ママはしばらくしてから気がついた。そして気がついてから、手で口を覆った。
「まさか」
「うん」パパがうなずいた。「ぼくは、あのライオンのぬいぐるみを置いたのは君だと思っていた。だから自分の買ってきたこの小さなぬいぐるみを置くのをやめた。やめてから君が触らないカバンの中に入れた。だけど」
「だけどわたしは、ライオンのぬいぐるみなんて置いていない」ママがいった。「じゃあ、じゃあやっぱり」
「あれは、正真正銘のサンタクロースだったんだ」
 クリスマスは不思議なことがいっぱいだ。たとえばサンタクロースが妙にビジネスくさかったり、大人のウソだったりする。でもそんなことは子供には関係がない。あかりちゃんは笑顔いっぱいで、森のクマさんを大きな声で歌っているのだから。だからクリスマスはハッピーな日なのだ。
 そしてそれからは、特に大きな事件は起こらず、穏やかに進んでいった。普通に大掃除を済ませ、普通にお正月を向かえ、普通に仕事や幼稚園が始まりだした。しかし単なる出来事というのはいくらでもあった。郵便受けに届けられたキリスト教的な手紙のことだとか、パパとママの仲が良くなったことだとか、あかりちゃんの物欲だとかいった具合にだ。それは小さなことで、しかし悪いことでもなくて、ハッピーなことなのだった。つまりハッピーというのは、そこら中にあるわけだ。
 だからあかりちゃんはママのエプロンを引っつかみ、こう叫ぶ。
「あかり妹がいいの! お姉さんになりたいの!」

END
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