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 それは、遠い記憶のようだったし、しかし、つい最近のことだったような気もした。アルフが一人で旅に出た時というのは、そんな風に曖昧なものだった。いつ自分が旅に出たのか、そして、どういった経緯で旅に出たのか。彼にはそれが分からなかった。妙な話ではあるが、当のアルフにとってそんなことは、気を煩わせるほどの問題ではないのだった。
 そしてアルフは、ここヤギトの町へとたどり着いた。
「それで、その洞窟には金貨が眠ってるんだとよ。それもただの金貨じゃねえ。町の商人の資産を全て合わせても足りねぇくらいの価値だ。それさえあれば一生遊んで暮らせるし、好きなもんも食い放題。それこそ楽園のような人生が待ってるはずだぜ」
 町の酒場で酔っ払いに付き合っていたアルフだったが、いい加減にうんざりし始めていた。なにせこの酔っ払い、先ほどから小指大ほどのねばねばとした液体を飛ばしてくるのだ。あと数十分ここにいたら、そいつで小さな池ができそうなものだった。
「その噂はだれが言い始めたんだ?」
 とアルフが言ってみると、その酔っ払いは赤くなった顔をうんざりしたように歪めた。
「知るかよ、そんなこと。とにかくだ、あの洞窟に行ってみればわかるんだ」
 アルフはそれを聞いて、手元のグラスを一杯呷ると、こう告げた。
「行ってわかるくらいなら、明日の昼ごろにはこの町での金の価値はなくなってるはずだ」
「はあ? なにいってやがるんだ」
「まあいい。とにかくここはおれが払っといてやろう。だからもう話しかけるな」
 アルフはそう言うと酒場を出た。
 夜に現れる月は素晴らしい。それがどうしてなのかはわからなかったが、その月は涼しく、清らかで、とても高貴なもののような気がしたのだ。道端の雑草は生い茂り、古ぼけた小屋には苔が動き回り、酒場には変な酔っ払いでいっぱいなのに、その月は素晴らしいのだった。
 しかし、いつまでもこうして街中を歩いているのは決して良いことではなかった。夜の本来の役目は眠らせることであり、人は眠ることでしか疲れを取ることが出来ないのだ。そしてまたアルフも疲れており、眠くもあった。酒場に寄った理由も忘れかけているくらい眠いのだった。
 やがて宿屋の前にたどり着いたアルフは、懐に手をやり、皮袋を取り出して、中身を確かめた。わずかな枚数しかない銀の硬貨と銅の硬貨には、なんの魔力もない。アルフはため息をついたが、しかし、宿屋の中へと入っていった。その宿屋は、いかにも宿屋といった風情で、正面にカウンターが、左右に階段が、その上には吹き抜けとなっている二階の手すりがあるのだった。アルフはカウンターに歩み寄って、いくらだ、と尋ねた。店主は久しぶりの客に笑顔を振りまいて値段を言った。アルフが少しまけてくれといったら、店主はしぶしぶ値段を下げた。それに満足したアルフは、手持ちの硬貨を色褪せたカウンターの上に置き、部屋の鍵を借りて、右の階段を上っていった。上り終えると、左に曲がり、右に曲がり、部屋の入り口にまでたどり着いた。そして鍵を開け、中に入り、ベッドと小さな机しかない部屋の内装をろくに見もせず、真っ先にベッドへと向かい、どさりと倒れこんだ。まぶたが落ちてきて、それを阻止し、窓の外に目をやって、夜の景色を眺め、それから、ゆっくりと眠り込んでいくのだった。
 次の日の朝、アルフは金を得るため、町の役場へと出向いた。役場の中にいるのはいつも暇そうな人間たちばかりで、それらはなぜか壁の時計を気にしているのだった。しかしアルフはそんな当たり前の光景を気にも留めず歩き出し、奥の「仕事探しはこちらから」という張り紙の張った窓口へと向かった。窓口担当の人間は、茶色の髪を頭の後ろで一つに束ねた、くたびれた様子の中年の女だった。その女はさも面倒くさそうな表情でアルフを一瞥し、「なにか」と話しかけてきて、それから手元の書類に視線を戻すのだった。アルフはため息をつき、その女をじっと見つめた。女はその視線に気がつき、引きつった笑みを見せた。アルフは口を開いた。
「ここの張り紙を少しも理解していない、脳味噌が空っぽの連中だと勘違いするのは一向に構わないのだが、それでも気分よく仕事がしたいのなら笑顔を作るべきだな」
「は?」女が間抜けな声を出した。
「少なくとも、おれだったらそうするね。退屈で仕方がない仕事を退屈で終わらせるよりは、努力して、お互いが気持ちよく事を終わらせたほうが、楽しいはずだからな」アルフはそこで一つ間を置いて、「仕事を探している」と尋ねた。
「はあ」と担当の中年女はアルフを疑わしげに眺め回したあと、手元の書類に目をやった。そして、「いまあるのはこれくらいですけど」と言って一枚の用紙を差し出してきた。
 アルフはその紙を手に取り、そこに書かれているものを眺めた。箇条書きで三つの仕事を紹介されており、いずれも一日のみの仕事で、昼食ありという条件が付随されていた。アルフは数秒悩んだあと、「これがいいな」と言い、真ん中に書かれている項目を指差した。アルフが示したのは、簡単な荷物運びの仕事だった。女がうなずいた。
「わかりました。それでは、酒場に直接向かってください。こちらが用意した書状をお持ちになられれば先方はすぐに理解いたしますので」と女が説明したあと、手元の書類から一枚選び出し、それを手渡してきた。アルフが受け取った。
「どうも。お互い気持ちよく、スムーズに行えた。感謝する」
 アルフは笑顔を残してその場から去った。中年の女はぽかんとしていたが、すぐに退屈な作業に戻り、時計を気にしながらのつまらない一日を過ごすのだった。
 酒場に出向き、店主に紙を渡すと、すぐに仕事内容を説明された。どうやら、酒瓶をある屋敷に届けてほしいそうだ。その酒瓶の量はかなりのもので、とても一人では運べそうにないものだった。しかし、雇われたのはアルフ一人だけで、店主のほうは店の準備に入るので忙しくなるため、このとてつもない量の酒瓶を運ぶ仕事はアルフだけの仕事となった。他にやることもなく、いまから再び役場に戻るのも骨が折れるので、アルフは仕方なく、それらの酒瓶を何回かに分けて運ぶことにしたのだった。
 そうこうするうちに一日が過ぎ、アルフは給料と余った酒瓶を貰って昨夜の宿屋に戻っていた。金貨を数枚カウンターの上に置いて、今度は比較的ましな部屋に通された。アルフはその豪華な部屋の窓から、昨日と変わらない月夜に照らされたこの寂れた町を眺め、酒をごくごくと飲み、アルコールが程よく回ったころ、ようやく眠りに落ちるのだった。
 その次の日、アルフは町の大通りを歩いていた。目的はなく、ただ、歩いていた。ここは大通りというには驚くほど人が少ないが、ヤギトの町ではもっとも人が多い場所だった。歩く人々はみんな辛気臭く、野暮ったく、疲れた表情をしていた。
「ちくしょう、誰か助けてくれ!」
 通りの先のほうから、鋭い叫び声が風に乗ってやってきた。なにやら騒がしく、アルフは気が向いて、そちらに向かった。
 そこには青い服を着た男と、頑丈な体つきの男が、数メートルの距離を挟んで向かい合っていた。どうやら先ほど叫んだ方は青い男らしい。なにしろ、服に土がこびりついていたし、地面に転がってもいたからだ。
「よし、俺が助けてやる」
 アルフのとなりにいた背の小さな男が名乗り出た。見渡してみると、二人の男の周りには大勢の人々が集まっていた。先ほどまでの大通りの人口が、一気に増えたようだった。
「ちょっと待てよ、助ける相手が間違ってるぜ」頑丈な男がいった。
「なんだと? どういうことだ」背の低い男がいった。
「俺はこいつに金を貸したんだ。それなのに、いつまで経ってもこいつは返さなねえ。問い詰めてやったら、いきなり殴りかかってきた。だから外に連れ出して、投げ飛ばしてやったんだよ」
「そうだったのか」背の低い男が納得して、青い服に迫った。「おい、お前! こういうことはやめたほうがいいぜ!」
「ま、待ってくれ! あいつの大嘘にだまされるな! 金を貸したのは奴じゃない、この俺だ!」
「おいおい、どっちだってんだ」背の低い男がそういって、周りにいた群衆もそれに賛同した。
「じゃあ、二人に聞いてみようか」とアルフが前に出た。視線が突き刺さったが、アルフはそれを無視した。「いま持っている金の額は? いや、いい。財布を出してみるんだ」
「わ、わかった」青い服が出した。
「そちらさんは? 出さないのか」アルフが問う。
「そんなこといまは関係ないだろ。それに、金はこいつに貸してるんだ、あるわけがねえ」
「わかった。嘘をついたのはお前だな?」アルフは頑丈な男に指差した。
「な、なんだと? 言いがかりだ!」
「なんで人に金を貸せるだけの奴がいま金を持っていない? 人に金を貸せるだけ持っている奴だけが人に金を貸すんだ」
「た、たしかにそうだ! お前が嘘をついたんだな!? 覚悟しろ!」
 背の低い男がそう叫んで、頑丈な男に飛び掛かった。頑丈な男は最初それを跳ね除けたが、周りにいた人間の思わぬ加勢に押されて、ついに撃沈した。アルフは静かにそれを見守り、すぐにその場から離れた。
「待ってください!」右を見ると、青い服の男がいた。「お礼を、させてください!」
「そんなことより、あいつから金を返してもらうのが先じゃないのか?」
「そ、そうでした」
 青い男が争いの真っ只中へと走っていった。アルフは再び歩き出した。しばらく行くと、景色がだいぶ変わってきた。この町の中央を分断している大通りの、終点にまで近づいているようだ。町の出口がすぐそこにあった。
 ヤギトの町を出るのは、いまではない。そう考えていたアルフは裏道へと足を向けた。裏道はとてものどかな道だった。町の住人が時々通るような道で、子供たちの遊び場でもあった。左右に木造の民家がドミノのように並び、そこの窓からは洗濯物がぶら下がっていた。そんな道をアルフはのんびりと歩き、民家のポーチで寝ている猫たちを撫でてはごろごろ言わせ、愉快な気分になったのだった。
 ふと、後ろに振り向いてみた。
 女の子が立っていた。アーモンド形の目を持ち、くりくりとした赤毛が可愛らしい、小さな女の子だった。その子が、じっとアルフを見つめていた。しかし、見覚えはない。なぜ自分を見ているのかわからなかった。
 アルフはその女の子を無視することにした。だから歩き出した。
 裏道がやがて比較的大きい通りに出て、それがまた大通りに合流した頃になって、アルフはもう一度振り返ってみた。
 先ほどの女の子が立っていた。やはりアルフを見つめている。
「どうしてついて来る」とアルフが問う。
「知らない」と女の子は答えた。それは透き通るような声だった。歌を歌わせたら、さぞや素晴らしいものになるだろう。劇場に出ても良さそうなくらいだ。そんなことを思わせる、綺麗な声であった。
「知らないってことはないだろ?」アルフは腕を組んで、女の子を見下ろした。「よし、じゃあこう聞こう。これならわかるはずだ。君はだれだ。どこの子供だ」
「知らない」
「……捨て子か。だったらおれにはついて来るな。飯をやれるだけの金は持っていない。別の人間にすがるんだ」
「無理」
「なんだと?」アルフは目を丸くした。「わかった。それならこうしろ。役場に行くんだ。そこならいろいろ援助してもらえるし、運がよければ孤児院にまで連れて行ってくれるかもしれない。とにかくおれには何もできん。ここの人間じゃないんだ。場所はわかるか?」
「知らない」
「しょうがない。そこまで連れてってやる」
 アルフは再び歩き出した。昨日行った役場まで歩き続けた。後ろは見なかった。
 役場にたどり着いて、ようやくアルフは振り返った。女の子は変わらぬ距離でそこに立っていた。ずいぶん早く歩いてきたのに、疲れている様子はなかった。
「ここが役場だ。中に入って大人に話しかけるんだ。助けてください、とか、困ってるんです、とかな。ここの連中は暇な奴ばかりだからすぐに相談に乗ってくれるぞ。わかったか?」
「知らない」
「おいおい……それはないだろ。まあ、いい。とにかく、この中に入ればいいんだ。ほら、さっさと行け」
「無理」
「知らない、無理、そればかりだな。もう少し語彙を増やしたほうがいいぞ。お前、年はいくつだ」
「知らない」
「なるほど。まあ、捨て子だしな。いままでどうやって生きてきたんだ?」
「知らない」
「その日暮らしか、可哀想に。だが、おれにはなにもできないからな。さあ、行くんだ」
「無理」
「……理由を言え」
「知らない」
「なんだってんだ! おれをからかってるのか!? いい加減にしろ!」
「……ごめん」女の子がうつむいた。
「……ちっ」
 アルフは自分のくしゃくしゃの髪を掻いた。最近は水浴びもしていなかったが、昨夜、備え付けの水場で体を綺麗にしていた。だからいつも汚い自分の髪は、いまだけは清潔だった。アルフはそんなことを考えながら目の前の女の子をどうするか悩んでいた。
「……悪かったよ、怒鳴ったりして」とアルフはため息をつきながら言った。「とりあえずお前をこの中まで連れて行ってやる。それでだれかに話しかけてやる。それでいいんだろ?」
「うん」
「よし、それじゃあいくか」
 アルフは役場の中に入っていった。そこでは昨日と同じ光景が繰り広げられていた。仕切りで区切られている広間には数人しかおらず、客のいない公務員たちはお茶をすすり、時計を見て、なにか仕事がないかと辺りを見回しているのだった。奥の窓口を見てみると、昨日の女が頬杖をついてぼーっとしていた。アルフは誰に話しかけようかとしばらくその場で突っ立っていたが、やがて歩き出し、「お困りの方はこちら」と言う張り紙のある、奥から二番目の窓口を目指した。そこでは中年の男が本を読んでいた。頭は見事に禿げ上がっていた。
「ちょっと」とアルフが言った。
「はい? なんでしょう」
「浮浪児についてなんだけど、この町はそれについてなにか対策をとっているのかい?」
「ええ、孤児院に連れて行きますよ。子供たちには明るい未来が用意されていなければなりませんからね。孤児院の運営費は税金でまかなっていますが、それは子供たちのためですのでご理解ください。ここ、ヤギトの町では皆さんの税金を決して無駄には使いませんよ」
「そうか。それじゃあこの子をそこに連れて行ってくれ」
 アルフは後ろの女の子を指差した。彼女はじっとアルフを見つめていた。頭の禿げた男はそちらを見て、それからアルフに視線を戻した。なぜか訝しげな目だった。
「どこにいるんです?」
「どこにって……後ろにいるじゃないか」
「いや、私には見えませんけどね」
「見えない? どういうことだ」
「だから、そんな子はいないじゃないですか」
「この、赤毛の女の子だぞ? 見えないわけがない」アルフは彼女を窓口まで引き寄せた。「ちょっと、君、君は見えるだろ?」
 横にいる、昨日の女に声をかける。女はさきほどから気になっていたのか、すぐにこちらに顔を向けた。
「えっと、見えませんよ」少し見渡してから、女は言った。
「なんだって?」アルフは愕然とした。「そんなはずはない。ここの連中はどうかしているのか?」
「どうかしているのはあなたのほうですよ」女がさげすんだ目を向けた。
「冷やかしならやめてください。私たちは、こう見えて忙しいんですよ。仕事があるんです。すぐにお引き取りください」
 男に言われるまでもなく、アルフはすぐに女の子を連れて役場から出た。外に出て、アルフはこの状況を理解しようと試みた。しかしうまくいかなかった。原因はなんだ? この女の子だ。
「お前、いったいなんなんだ?」
「知らない」
「おれに見えて、ほかの人間には見えていない。ということは、どういうことだ」アルフは考えた。そして、「そうか」となんとなく結論を出した。「どうやら、頭がおかしくなっちまったようだ。昨日飲んだ酒がいけないのか? それとも、いままでろくなもん食ってなかったからか? ああ、くそ、なんだってこんな――」
 アルフはきっと女の子を睨みつけた。女の子はびくっと体を震わせた。
「これが、妄想だと?」アルフは女の子の肩を掴んだ。それは華奢で、骨ばっていて、冷たく、小さいながらも、実感のあるものだった。「そんなはずがない」とアルフが言って、手を離した。すると、女の子が見上げて、アルフを見つめた。
「……違う。あたしは、妄想じゃない」と女の子が言った。
「じゃあ、なんなんだよ」
「……知らない。気がついたら、あなたの前にいた。それで、なぜか離れられなくなった」
 アルフは黙って女の子を見た。そして彼女は唾を飲み込んだ仕草を見せて、「あたし、幽霊かも」とつぶやくのだった。



 アルフはその女の子を見つめた。その時ちょうど、突風が吹き、砂が舞った。舞うのは砂だけではなく、彼女の赤毛もゆらりと舞った。すぐそこの役場の窓ががたがたと鳴り、アルフは女の子から視線をそらした。
「冗談だろ?」
 アルフのその言葉は、なぜか自信がなく、いつもの彼らしくなかった。
 女の子は首を横に振って、アルフの目をじっと見つめた。彼女の目には強い光があった。いま太陽は西の空にあるはずだが、そこには分厚い灰色の雲が陣取っており、このヤギトの町には光があまり届いていなかった。そのせいで、町だけではなくアルフの心まで深海のように暗く冷え切ってしまっていた。しかし女の子の目の光は、それらの暗い雰囲気を払拭してくれるような、そんな力も持ち備えているのだった。
 その光が、徐々に、陰りを帯びてきた。アルフは戸惑い、彼女の肩に再び触れようとしたが、迷い、結局何もしないで、手を空にさ迷わせた。そのとき女の子の目がアルフの目から離れることはなかった。この時になってようやく突風が止み、砂が元の位置から数メートル離れた場所に舞い降りて、がたがたいう窓が静まった。二人の間に、静かな時が流れた。
「世の中、わからないことだらけだ」アルフがいった。彼の言葉には自信が戻っており、いつもの彼らしい力強いものになっていた。「洞窟に大金が眠ってるなんてよくわからない噂が広まっているし、昔買った地図がいつの間にやら使い物にならなくなっている。そして、おれがどこから来て、どこに行くのかもわからない始末だ。お前が幽霊だって? 大いに結構。この世は、よくわからないことだらけなんだからな。信じてやる。信じてやるよ。お前、名前は?」
「知らない」
「そうだ、そうだったな」
 アルフは視線を後ろに向けた。その方向の先には彼が昨日と一昨日泊まった、あの宿屋らしい宿屋があるのだった。
「おれはもう宿に戻る」アルフは視線を変えないまま、静かに言った。「後ろは振り向かない。だから、お前が大嘘をついていて、逃げ出したとしても、おれにはわからない。つまり……おれの言ってることがわかるか?」
「なんとなく」
「よし」アルフがうなずいた。「それじゃあ行くぞ」
「うん」
 そのあと二人は、揃って宿屋にたどり着いた。宿屋の店主はアルフの姿を見て、にっこりと笑った。アルフはその時になって初めて、この店主の前歯がひとつ抜け落ちていることに気がついた。カウンターには一人分のコインしか置かなかったが、店主は何も言わずに二人を歓迎した。アルフは左手の階段から上り、一番奥の扉の前にまで歩いていった。その一連の流れの中で、彼は一度たりとも女の子がいることを確認しなかった。女の子はただついてきているだけで、一言も言葉を発さなかった。アルフは扉を開け、鍵も閉めずに奥のベッドに向かい、天井を仰ぎ見てから、そのままごろりとベッドに寝転がった。仰向けになった彼は目を閉じ、数をいくつか数えた。
 ここへ来て、ようやく、アルフはついてきた女の子を見た。
「……幽霊、か」
「うん」
「腹、減ったか?」
「……減ってない」
「そうか。幽霊だもんな、お前」
「ごめん」
「気にするな」とアルフはうなずいて、上体を起こした。「それで、だ。これからどうするか決めないといけない。お前、自分が死ぬ前のことを覚えていないか?」
「死んだ前? ……無理」
「わかった。つまりお前は、なにも知らない。どうしようもないわけだ。幽霊の意味をいま考えても仕方がないし、お前の存在意義についてもわからないまま。そこでおれがするべきことは、ただ一つ。なにもしないことだ」
「……わかった」と女の子がうなずいた。
「つまり、おれはいつも通りの生活をする。旅をし、町に着き、仕事をして、また旅に出る。その繰り返しだ。幸いお前は何も食わなくても生きていけるようだから、おれにとって問題はなに一つない。宿代だっていつも通りだ」
「うん」
「さて、お前、といつまでも呼ぶわけにはいかないな。だから、名前を考えなければいけない。お前、名前も覚えていないんだろう? どうだ、今でもわからないか」
「うん」
「相変わらず語彙が少ないな。よし、そのことから名前をつけてやろう」アルフは腕を組み、しばらく考えてから、「セリム」とつぶやいた。「よし、それでいいな。お前の名前は、台詞が無い、から、セリムだ。いいか?」
「せりむ……わかった」
 アルフは彼女の返事を聞いてから、腰の袋から硬貨を一枚、探り出した。
「セリム」
 アルフはその硬貨を彼女に投げた。銅色のコインが弧を描きながら空を飛び、セリムはそれを見事にキャッチした。
「なるほど、物を掴むことはできるわけだな」
 アルフは感心しながらいった。そして、彼女の両肩をしっかりと触れたことを思い出した。
 それからアルフは様々なことをしゃべった。セリムはそれを聞き、たびたび質問をし、語彙を増やしていった。しかし、まだまだそれは小さな芽にすぎなかった。いずれそれが巨木になるのだろうか、とアルフはそんなことを思いながら、ただ、彼女にいろいろな話をしてやったのだった。
 その次の日。アルフが目を覚ました。アルフはベッドの上でシーツに包まっていた。何度も洗濯をし、よれよれになったシーツだった。
 セリムは部屋の隅で座っていた。両膝を引き寄せ、そこに顔をうずめていた。彼女は眠っているのではなかった。眠れないのだった。そしてそれがどうしてなのかもわからないのだった。
 アルフはベッドから下り、部屋を横切って、扉を開けた。廊下に顔だけを出すが、そこには誰もいなかった。廊下は薄暗く、朝を告げているかのように静まり返っていた。彼はそのまま廊下に出て、階段に向かって歩き出した。後ろから物音がした。セリムだった。気分が悪そうな表情で、青白かった。
「どうした?」とアルフが声をかけた。なにも考えずに、自然と出た言葉だった。
「……お腹が痛くなった」
「おれが離れたからか?」
「うん、そうだと思う」
「なるほど」
 その後に続く言葉はなかった。アルフは階段を下り、店主のいないカウンターを横切り、宿屋から出た。朝日が東の空から顔を出していた。雲が一つあるだけで、快晴だった。
 アルフは近場のパン屋で細長いパンを買った。一人分だった。アルフはそれをかじりながら、道を歩いた。昨日のように、ただ、歩いていた。しばらく行くと、朽ち果てたベンチを見つけた。縞模様の猫が気持ち良さそうに眠っていた。アルフは猫を起こさないように、静かにベンチに腰かけた。
 セリムは、相変わらず彼についてきていた。
「いつだったか、おれは猫に助けられた」
 アルフが突然いった。しかしそれは、いつものことだった。
「雨が降っていたときだった。それも土砂降りだ。風も吹き荒れ、目の前に襲ってくるような雨だった。おれは当然、雨宿りになる場所を探した。雨のせいで視界も悪く、ずぶ濡れのまま彷徨った。そしてわかったことは、そこらは荒野で、あるものといえば小さな石ころぐらいだったってことだ」
「それで、どうしたの?」
「猫がいた」
「どうして?」
「知るか、そんなこと。だけどな、その時たしかに猫がいたんだ。おれはその猫を信じて、ついていった。いまのお前のようにな。すると、小さな岩を見つけた」
「岩?」
「そうだ。そして、その岩に隠れるように、よく見ないとわからないように、穴が開いていた。地面に掘られていたんだ。その中に入ると、それが横穴だとわかり、自然に出来た洞窟だとわかった。そこは猫たちの住処だった。何匹もの猫がいた。縞の猫、ぶちの猫、あとは三毛猫に、尻尾がくたびれた猫とか、いろいろな猫たちがいた。おれはそいつらを刺激しないように、その洞窟で雨が止むのを待った」
 セリムは、アルフの話を黙って聞いていた。昨夜のように、彼女は聞いていた。
「雨が止み、外に出てみると、おれは驚いた」
「なんで? なにかあったの?」
「すぐそこは、崖だったのさ」
「崖? 崖って、どういうの?」
「地面がなくなっているんだ。その下は数十メートルもあり、落ちたら死んでしまう。おれが見た崖は、下が見えないほどの高さだった。そんな崖が、洞窟のすぐそこにあったんだ。おれが猫を信じてついていかなかったら、おそらく真っ逆さまになって落ちていただろうな」
「危なかったってことか」とセリムがつぶやいた。
「そうだ」とアルフはうなずいた。「それで、おれがいいたいのはこういうことだ。――なにもわからない状況でなにかをしようとしても危険なんだ。そういった時には、なにかを信じて、ただ、それについていくことだけしかないってことさ」
「それは、あたしのこと?」セリムが首をかしげた。
「違う。お前の場合は選択肢がない」
「じゃあ、なんで」
「知るか、そんなこと。自分で考えろ」
「……わかった」
 そのあと二人は宿屋に戻り、休み、店主に鍵を返し、アルフは役場へ行き、セリムはアルフにつき、素早く、滑らかに時が過ぎていった。時間というものは曖昧なものである。あるときには長く、あるときには短くなる。そしてこのときの時間は、食べ残したパスタのように短かったのだった。
 その次の日も、そのまた次の日も、アルフは仕事をし、金を稼いだ。セリムは彼にただついていき、語彙を増やしていった。
 そして、三日目の朝。曇り空のもと、アルフは旅に出る時がきたと確信した。
「旅に出る」
「どこに?」
「どこかに」
 彼らは静かに、誰にも知られることなく町の中央の道を通り、出口にたどり着いた。その頃になると、ぽつぽつと水滴が空から流れ落ちてきていた。やがてそれが川の流れのように大きくなり、しまいには滝のような豪雨となった。
 町を出る前に買っておいた傘を手に、アルフは歩き続けた。彼は自然とセリムを中に入れていた。雨が布地に当たり、大音響が彼らの耳に響いていた。
 ヤギトの町を出たのは、彼らだけだった。雨がほかの者を拒んでいたのだった。
 そして月日が流れた。
 太陽が昇り、くだり、また昇り、そして、くだっていった。アルフの髪が伸び、セリムの髪は伸びなかった。しかし、セリムの語彙は増えていき、いつしかセリム、という名前が不釣合いになった。それでも彼は彼女をセリムと呼び、また、彼女も自分のことをセリムであると認識していた。
 彼らの旅路は決して楽なものではなかった。そもそも、旅という言葉は同時に、苦労を意味しているのだ。だから彼らはその旅を楽しいものだなんて考えなかったし、言葉にもしなかった。彼らの間に交わされる言葉はわずかで、いつもアルフが一方的に発していた。二人の会話は、アルフが話し、セリムが聞く、というものになっていた。
 ある日、アルフたちは見知らぬ町へとたどり着いた。
「それでな、おれたちが歩いていくと、奇妙なりんごが落ちていやがったんだ。普通は、そんなもんに目もくれねえよ。だがな、なぜかおれたちはそのりんごに吸い寄せられていった。その時だ。あの恐ろしいことが起こったのは」
 その見知らぬ町の、見知らぬ酒場でのことだ。いつもアルフはどこかの町にたどり着くと、まずは酒場へ向かっていた。理由ははっきりとはわからないのだったが、彼はそれを情報収集であると秘かに思っていた。その秘かな考えは、いままで誰にも話していなかったが、セリムにだけは話していた。それ以外にも、アルフは普段決して口に出さない思いをセリムにだけは語っていたのだった。
「それで、どうしたのかしら」
「それで、どうしたんだ?」
 アルフは横に立っているセリムの言葉を受け継いだ。彼女は姿だけではなく、声も誰にもわからないのだった。ただし、アルフを除いて。
「聞いて驚くなよ。りんごが急に走り出したんだ」
「りんごが走る? 馬鹿言うなよ」
「ふん、頭の固い人間はこういう話が理解できないようだな」
「頭の固い以前の問題だろう? お前の頭がやわらかくなりすぎて使い物にならなくなっただけの話だ。アルコールの採りすぎじゃないのか? マスター、あんたこの男に酒をやりすぎだぞ」
「なんだと? おい、もっかい言ってみろ!」男が吼えた。
「一度でわかるように少しは頭を使え」とアルフが返した。
「ふざけるな! 表へ出ろ!」
 男が立ち上がった。
「まぁまぁ、落ち着いてくださいよ、お客さん。ほら、あなたも謝って」
 グラスを白い布で拭いていたマスターが言った。アルフは手元のグラスを眺め、ため息をついた。明かりを通して、グラスは薄い琥珀色に輝いていた。
「アルフ、謝らないの?」
 セリムが口を出してきた。
「わかったわかった。おれが悪かったよ。なにせ長旅をしてきたもんでね、機嫌が悪かったんだ。ほら、この通りだ」
 アルフは頭を下げた。男は静まり、座った。
「それで、どうしたのか聞いて」とセリムが言った。
「それで、どうしたんだ?」
「ああ、それでだ」男の機嫌はすっかり良くなっていた。「おれたちはりんごを追いかけていった。やがて街道から林道へ、森の中へと突入していた。おれたちはいつまでもそのりんごを追いかけていった。なんでか知らねぇが、とにかく追いかけていったんだ。そして、森を抜け、荒野に出た。そこでついにりんごが止まった。おれたちとりんごの目の前には洞窟があったんだ」
「洞窟? それでどうしたんだ」
「入ったぜ、もちろんな。中には驚くほどの金貨が眠っていた。おれたちは叫んだぜ、そりゃあもうな。大合唱をしながら袋に金貨を詰め込んだ」
「だが、お前の身なりは良くないな」と言い、アルフはグラスの酒を呷った。
「そうさ。金貨は手に入らなかった。なにが起きたと思う?」
「怪物が現れた、とか?」
 セリムが言った。アルフはそれを口にした。
「違う、そんな馬鹿な話があるか」
 セリムがうなだれた。アルフはそれを見て、「りんごが走るなんていう、馬鹿な話を聞いたからだ」と言いそうになったが、ぐっとこらえた。
「死体だよ、死体」と男が言った。「女の死体が転がってたんだ。おれたちは恐ろしくなって、すぐにその洞窟から逃げ出した。袋の金貨はいつのまにか消えてなくなっていやがった。おれはもう二度とあの場所へは近づきたくないね」
「死体ごときで逃げ出したのか」
「疫病だよ。その女、疫病にかかって死んでいたんだ。体中に黒い斑点がぼつぼつと浮き出ていやがったぜ」
「疫病か……それはたしかにごめんだな」
「そういうことさ」
 アルフは酒場を出、その町の宿屋に向かった。
 宿屋は、正面にカウンターがあり、左右に階段があるといういかにもな風情だった。アルフは古ぼけたカウンターに魔力の少ない硬貨を置き、部屋に向かい、部屋の扉を開け、ベッドに寝転がり、窓の景色を見ながら、ゆっくりと眠りについた。セリムは眠らず、アルフの代わりに外の景色を眺めていた。そしてそれは朝まで続いた。
 その次の日、アルフはその町の役場に出向き、仕事を探した。窓口に立っているのは年老いた男で、妙に間の開いた口調が特徴だった。アルフは仕事を貰い、金を稼いだ。セリムはただそれについてきているだけだった。
 こんな風に二人は旅をし、町にたどり着き、仕事をして、また旅に出るという生活を送っていった。
 そしてまた月日が流れ、その時になっても彼らは旅を続けていた。アルフは伸びた髪を切り、セリムは変わらず、くりくりとした赤毛を揺らしていた。ヤギトの町に再びたどり着いたのは、彼らが初めて出会った日から約二年後のことだった。



 二年という歳月を、アルフははっきりと認識していなかった。それは遠い記憶のようでもあったし、しかし、つい最近のことだったような気もしていたのだ。いつだったか、彼はそれに似た思いを抱いたことがあった。アルフはそのような思いを、つねにかかえて旅をしてきたのかもしれない。
 そしてセリムはいつのころからか、よく笑うようになっていた。アルフの言ったことに興味を持ち、深い理解を示し、彼に笑いかけた。彼女の姿はあの頃とちっとも変わっておらず、ブロンズにも似た赤毛をゆらゆらと揺らし、アーモンド形の目がきらきらと輝く、あの時の女の子そのままだった。しかし、服装だけは違っていた。薄汚い布着から、なめし革でできた旅人御用達の服装に変わっていた。
「アルフ」とセリムが口を開いた。アルフにはその次の言葉がわかった。
 目の前には、大きな、山のように大きな、石の外壁があった。アーチ状の門には、絶えず人々が行きかっていた。馬車やロバに乗った旅商人たちが、町を警備する守備隊が、たくさんの人間が、門をくぐっていた。
 それはヤギトの町らしからぬ光景であった。
「ここが、本当にヤギトの町なの?」
「そうだ。この地図にはそう書かれている」アルフが手元の古ぼけた地図を見せた。「それにあいつを見ろ。たしかにヤギトの町と書かれているだろう?」
 旅商人の馬車が横切った街道の先に、木で作られた大きな看板が地面に打ち付けられていた。そこには大きく、伝統的なこの地方の文字で、ヤギトの町、と書かれていた。セリムはそれを見て、そうね、と答えた。彼女に文字を教えたのは、もちろんアルフだった。
「こんなに大きな町はいつ以来かしら」とセリムが言った。
「いや、ここまで大きな町はセリムがいる時には行っていない。初めてだろう」
「そうかしら」とセリムが首をかしげた。
「そうだとも。それとも、記憶が、死ぬまえの記憶が戻ったのか?」
「いいえ、違います。わたしの勘違いでした」
 実は、セリムの変わったところは服装だけではなかった。口調が大きく変わっていた。語彙が増えると同時に、知識も増え、言葉遣いも変わったのだった。それは小さな女の子の言葉とは思えぬほど聡明で知的な言葉使いだった。そこには気品が漂い、涼しくもあたたかい、それはまるで夜に映える美しき月のようだった。
「とにかく、入ろうか」とアルフが言い、二人は石の外壁の途切れている、アーチ状の門をくぐって、町の中へと入った。その時、多くの人間と、押し、押され合い、つまり、ぶつかった。セリムはアルフにぴたりとくっついていたが、同時に、押されてもいた。二年前のあの日からわかっている通り、彼女には実体があるのだった。わからないのは、セリムがなぜ霊なのかということだけだった。
 ヤギトの町は活気に溢れ、道路は綺麗に石畳が敷き詰められ、レンガで造られた建物が目立つ、貿易で栄えている大きな都市だった。そこは二年前の寂れた、野暮ったい町とかけ離れた、物資が豊かで交通量の絶えない、似ても似つかない町なのだった。
 二人は出店で大賑わいの道を通った。アルフはその道に見覚えがあった。その通りは、二年前の、あの日の、町の中央を横切った大通りに違いなかった。
 その大通りは数多くの商人たちの喧騒に包まれていた。左右から鋭い声が飛んできて、耳をつんざくほどやかましく、それらは全て熱気をはらんでいた。アルフは耳を押さえたい衝動を抑えながら歩き続けた。後ろにはセリムがついていた。アルフは彼女をちらりと見やり、その表情が自分と大して違わないことを確認した。
「公務員の横暴を許すな! われわれの税金を、血税を、やつらは貪り続けているのだ! それを決して許すな! 阻止せよ!」
 大声が飛び交うその大通りの中で、唯一アルフの気をひいたのはそんな言葉だった。二人がその方向を見ると、二十人から三十人の集団が大勢の人々を押しやって行進していた。いずれも木のプラカードを掲げていて、そこに書かれている文字は先ほどの言葉と相違なかった。
「あれはなに?」とセリムが聞いてきて、アルフは肩をすくめた。
「さあな。あいつらの言葉通りのことが起きているんじゃないのか? いずれにしろ、無理のない話だと思うがね」
「税金を私腹の肥やしにしているという事実は、本当にあるのかしら」
「そんなものは必要ない」アルフは憮然として言った。「こういうものは、暴動が暴動を呼ぶんだ。誰かが腹が立ち、叫べば、まわりの人間がそれを支持する。なぜなら、みんながみんな、腹を立てているからだ。たとえそれが関係のないものだとしてもな」
「でも、あんなことをして意味があるの?」
「おれに聞くな。とにかく、おれたちには関係のない話だ」
 そして、セリムはそうね、と答えた。
 二人は歩き続けた。活気ある大通りを歩き続けた。入り口付近の喧騒が少しばかり弱まり、周りの建物が木造に変わっていく頃になって、二人は歩みを止めた。目線の先に、朽ち果てたベンチがあった。そこに向かい、腰かける。セリムはアルフの横についた。座ろうとはしないのだった。
 静かな時が流れた。周囲は静かではなかった。二人の間だけに、静かな時が流れたのだった。
「そういえば、あの時もこんなベンチに座ったな」
 アルフがそう言うと、やはりセリムがそうね、と答えた。アルフは続けた。
「だが、あの時とは大きく変わった。俺も、お前も、そしてこの町も。こんな風に旅を続けていると思うんだ。なぜおれは旅をしているんだろうか、どうして一つの町にとどまらないのか、ってな」
「それで、どうしてなの?」とセリムが言った。
「わからない。だが、おれはそれでいいと思ってる。旅が特別楽しいものだとか、そういうんじゃないんだ。ただ、おれはなぜか旅をして、次の町へと向かってしまう。そして旅をする理由は、それでいいんじゃないかって思うんだ」
 セリムはそれを聞いて、少し黙り、やがて、口を開いた。
「覚えている? あの時のこと」
 セリムが珍しく話を切り出したので、アルフは少し戸惑ったが、すぐに答えた。
「おれがお前に話したことか? 猫に助けられたっていう」
「そう。わからない時にするべきことは、なにか信頼できるものに、ただ、ついていくことだって。わたしはそれについてずっと考えていた。そして、いつの日かあなたが言ったその言葉の意味がわかったの」
 アルフは黙っていた。セリムは続けた。
「わたしのことを心配してくれていたのね。自分についてこい、って。自分は信頼できるものだって」
「おれは知らない。お前がそう思いたいのなら、思えばいい。勝手にしてくれ」
「ええ、勝手にするわ。でも、わたしはそれに感謝したい。そしてアルフが旅をしていたからこそ、わたしは多くのことを教えてもらい、こんな風に言葉を紡ぐことができるようになったの。だから、わたしはそれに感謝したい」
「それは結構なことだな」
 そしてまた、セリムはそうね、と答える。彼女は多くの語彙を持ちながら、いつも同じ返答をしていた。
 そして二人は宿屋へ向かう。あの時と同じように、二年前と同じように、宿屋へと向かうのだった。
 しかし、宿屋はそこにはなかった。あの時の宿屋はいつのまにか民家となり、門ができ、警備を担当する人間が待ち構えるようになってしまっていた。しぶしぶアルフは別の宿屋を探すことにし、そしてすぐに見つかった。宿屋は数が二つも三つもあり、いずれも豪華な屋敷を思わせる、レンガ造りの、二階建てではなく三階建てか四階建てか、あるいはそれ以上の高さの、大きなものだった。手持ちの少ないアルフは、その中で最も薄汚れた宿屋を選んで、中へと入っていった。
 そこは、右手にカウンターがあり、正面に階段があり、左手には大きな広間がある、見知らぬタイプの宿屋だった。広間の先には通路があり、広々とした空間が広がっていた。天井を仰ぎ見ると、煌びやかで豪華なガラス細工のシャンデリラが釣り下がっていた。二人は呆けたようにそれらを見つめ、出入りする身振りのいい人間たちを見守った。
 やがて動き出した。顔が映るくらいに磨かれた大理石の床を通り、これまたつやつやに磨かれたカウンターの前に出た。そこにいるのは、歯の抜けた店主ではなく、若い女であった。カウンターには店主が座っていなかった。おそらくどこかで雇った、どこかで育った、品の良い女だった。そして、彼女が言う法外な値段にアルフとセリムが驚いた。アルフは袋の隅々まで調べ、ようやく一泊できるだけの金を探し出して、女の前に差し出した。そして鍵を渡され、なんと部屋の前にまで案内されたのだった。
 部屋は豪華で、アルフの知らぬ装飾品が部屋を埋め尽くしていた。しかし、アルフはいつものようにそんなものには目もくれず、ベッドへと一直線に向かった。そのまま寝転がり、目を閉じ、開け、ぼんやりと天井を眺めた。
「そういえば、今回は酒場には行かないの?」とセリムが言った。アルフは身体を起こし、答えた。
「そんな気がしないんだ。いつもはそんな気にさせられるんだが、なぜか今回はしなかった。おそらくこの町がそうさせるんだ。町の熱気に、疲れたんだ」
「そうね。でも、情報収集はどうするの?」
「いまはとにかく、休みたい」
「こんなとき、わたしが酒場に出向けたらよかったんだけど」
「それはおかしな話だ。そんなことができるのなら、そもそもお前と一緒にいない」
「……そうね」セリムが寂しそうに言った。
 アルフは彼女から目を離し、窓の景色を眺めた。その後、ゆっくりとセリムに目線を戻した。
「そういえば、前から気になっていたことがある。セリムは疲れないのか?」
「疲れないわ」とセリムがうなずいた。「なにせ幽霊ですから」
「普通は夜に寝ないと疲れは取れないものだ。幽霊というやつは夜の種族だから、疲れもないんだな」
 そして夜が訪れた。アルフは眠り、セリムは眠らなかった。彼女はただ、窓から見える町の様子を眺めていた。静かな、夜の時間を、夜の街を、夜の景色を、目に焼き付けるのだった。
 それが不意に、破られる。セリムがアルフを叩き起こした。寝ぼけたアルフは彼女を見つめ、その後、夜の静寂がないことに気がつく。突然外から大きな物音が聞こえた。なにが起こっているのか、覚醒したばかりのアルフにはわからない。セリムが何かを告げるのを待った。
「暴動が」とセリムが怯えながら言った。「町の人々が騒いでいる。武器を持って、松明を掲げて、叫んでいるわ」
「ちくしょう。すぐに逃げるぞ。ここは危ない」
 アルフは走った。扉を蹴りつけ、地面を蹴りつけ、外に飛び出した。
 外は、真っ赤に染まっていた。木造の家屋が燃え上がっていた。人々が武器を持ち、空に掲げ、叫び続けている。革命だ、革命だ、と。やがて殺戮が始まる。暴動に参加しないものは逃げ惑うが、捕まり、切り殺される。そして大勢の命が失っていく。
 二人は走った。幸い、セリムは姿が見えないので、見つかっても危険なのはアルフだけだった。だから彼は大胆に走り続けた。セリムも必死で追った。彼の憑き物として、必死で追い続けた。
 途中で、彼は大勢の集団に囲まれてしまった。彼らはすでに当初の目的から見失っているため、なにやら奇妙な言葉を吐き続けていた。アルフはなぜか、そこにいないはずのセリムをかばう姿勢をとった。
 しかし、それは意味を成さなかった。集団が、集団に襲われた。襲った集団にはどこか正常なものが感じられた。そして、アルフはそこに懐かしい人物を見つけた。
 二年前の、あの青い服を着た男がいた。屈強な男に騙されかけた、あの男だ。その男は今では鎧を身に着けており、たくましい肉体を保持していた。だが、アルフに気がついていなかった。男がいる集団は鋭く尖った武器で狂った集団をすべて刺し殺し、先へ進んでいった。その途中で、ようやく、青い男がアルフに気がついた。アルフの姿を見て、すぐに男は集団になにかを告げ、二人に近寄ってきた。集団は先を急いだ。
「久しぶりですね!」男が嬉しそうに言った。「私のことを覚えていますか? あの時お世話になった者です」
「ああ、覚えている。あの男から金を返してもらったというのに、今度は暴動か?」
「それなんですけど、実はあの後、あの小さな男が寝返りましてね。お金を全部取られてしまったんですよ。それからあいつ、どんどん仲間を増やしていって、今じゃあんな風に実力者になっちまって――」
「ちょっと待て」アルフが男の話を遮った。「どういうことだ? 旅に出てたからよくわからないのだが」
「そうなんですか。時間がないので詳しくはお話できないんですけど、あいつ、つまり大きいほうの男ですがね、なぜか町の役員になったんですよ。たぶん暴力かなにかを使ったんだと思いますが……。えーと、とにかくそれから、いろいろありまして、この暴動を起こしたわけです。あいつを叩き殺してやろうって目的でね。でもまあ、うまくいかないもんです」
「なるほどな」とアルフはうなずいた。「とにかく頑張ってくれ」
「そうだ、お礼がまだでしたね。町から逃げるんでしょ? この町の抜け道を教えますよ。正面の門は警備兵でいっぱいです。だれも出してくれません。さあさ、こちらです」
「時間はいいのか」
「近いですので」
 男が案内した場所は、地下水道の入り口だった。多くの町民たちが集まってきていた。暴徒がここに来るのは時間の問題だろうが、それまでには逃げられると、昔は青く、今は鎧を着ている男が教えてくれた。
「幸運を」
 男はそう言ってすぐに引き返していった。アルフとセリムは他の人間たちとともに地下水道に向かい、走り続けた。その道は意外にたやすく、短いものだった。すぐに出口にたどり着き、ヤギトの町から抜け出ることができた。出た場所は、荒野だった。そして彼らはそのまま歩き続けた。他の町民たちと一緒に、夜の荒野を、ただ、ひたすら歩き続けるのだった。やがて人々は減り始め、どこかに散らばっていった。
「これから、どうするの?」とセリムが聞いた。
「さあな。どうするか」とアルフが答えた。
 そこらに目印はなかった。その荒野には石ころが転がっているだけで、他は何もないのだった。
 彼らにこれ以上旅をさせるのは酷だった。つい先日旅を終えたばかりで、資金の貯えもなく、旅の支度がなにも出来ていないのだった。
「やはり酒場に向かっていればよかったな」アルフが悔しそうに言った。「この暴動が起きるのを察知できていた」
「でも、疲れていたんですもの。仕方がないわ」
「だが、やはり情報収集は大事だってことを思い知らされたよ」
「そうね」
 目の前に、りんごが出現した。
「りんご?」セリムが興味ありげに近づいた。
「どこかで聞いたような話だ」アルフもそれに続く。
 突然りんごが走り出した。いや、正確には歩き出した。しかし、いずれにしろとんでもないことが起きた。
「馬鹿な。こんな話があってたまるか」
 アルフが言った。それを見て、セリムが首を振った。
「わたしみたいな幽霊がいるのだから、そこまでおかしい話ではないんじゃない?」
「それにしたって、りんごが動く? りんごは動かないものだろう」
「そうね。食べるものよね」
「いや、待て」と言ってアルフがりんごに近づいた。「こいつは、りんごじゃないぞ」
「え?」とセリムも近づいた。「本当だ。たしかにその通りだわ」
「これはまさか……」
 アルフはそういって、頭上を見上げた。そこには、朱色に輝く月があった。
「月?」
 セリムも同じように見上げ、つぶやいた。アルフはうなずいた。
「月が反射していたんだ。地面にな」
「そんな……水面じゃあるまいし」
「いや、もしかすると、この荒野に秘密があるのかもしれないぞ」アルフはしゃがみ、地面に手をついた。「おれにはよくわからないが、もしかしたら特別な鉱石が含まれているのかもしれない。手をかざしてみろ。薄くだが、反射している」
 セリムが真似をした。
「本当だわ。もしかすると、ヤギトの町はこの不思議な鉱石によって栄えたんじゃないかしら」
「確証はできないが、おそらくその通りだろう」
 二人は立ち上がり、ゆっくりと歩を進める朱色に反射した月を眺めた。いや、りんごのような月を。不可思議で、それでいて美しい朱色の月の反射物を。いつまでもいつまでも見つめ続けた。
「ねえ、アルフ」やがてセリムが口を開いた。「この月を追いかけない?」
「……セリムがそうしたいのなら、そうしよう」
「ありがとう」
 アルフとセリムは月を追い続けた。夜が終わるまで、月が沈むまで、二人はそれを追いつづけた。荒野にはなにもなく、人はいなくなった。
 そして、たどり着いた。そこは崖の前。かつて彼が見た、底が見えないほどの崖の前だった。そこには岩があった。その手前、隠れるようにぽっかりと開いた穴があった。そこは横穴で、洞窟の入り口だった。二人は入った。月が沈むまでに、朝日が昇る前に入った。洞窟の中はひんやりとした空気が満たされ、暗かったが、月の光が差し込んでいて、ぼんやりと浮かび上がって見えていた。
「猫がいないわ」
 セリムが言うとおり、その洞窟には猫がいなかった。そして死体もなかった。金貨もなく、夢も希望もなかった。だがそこは、たしかにアルフの知っている洞窟なのだった。
「そんな話をまだ信じてるのか? こんな荒野に猫などいるものか。この世界にそんな夢のある話が存在するものか」
「……そうね。信じていたわたしが馬鹿だったわ。でも、あなたの話で救われたことは事実。感謝の念は変わらない」
「……そうか」
 アルフはセリムから顔をそらした。彼女はそれを見て、微笑み、「ええ」とつぶやいた。
 だが、洞窟には違うものがあった。それは古ぼけた小さな布着。薄汚れた、いまではただの布切れにしか見えない代物。しかし、洞窟にはたしかにそれが存在していた。
 そして、セリムは思い出す。この布を見てなにかを思い出す。いくつかの記憶の断片が、ゆっくりと、かがり火のように揺られて、戻っていくのだった。
 彼女は歩き出した。その布切れに向かって歩き出した。アルフはそれを黙って見つめていた。セリムはやがて歩みを止め、片膝をついた。優雅に、静かに、軽やかに。
「この服に見覚えがない?」
 彼女は布切れを手に取り、そのままの姿勢で振り返ってから、アルフにそれを見せた。
「……いや、ないよ」とアルフが答えた。
「わたしにはある。これは、わたしが着ていた布着、あなたとはじめて会ったときに着ていた、あの布着よ」
「そう見えなくもないが」
「これは、わたしが着ていたもの。わたしが死ぬときに着ていた、死ぬまえの唯一の持ち物」
「セリム……もしや、記憶が戻ったのか?」
「いいえ。でもわかるの」
「……そうか」
「わたしが幽霊になった理由はわからない。けれど、ここがわたしの死に場所だということは、わかる。なにより、この布着が証明してくれる」
「……おれは、前に一度ここに来たことがある」とアルフがセリムの横にきて、言った。「いつだったかは覚えていない。いつも旅をしている人間にとっては、時間なんて概念はまるで雑草のように取るに足らない存在なんだ。それはお前にもわかることだと思う。だが、おれは確かにこの洞窟に来たことがあるんだ」
「猫のことと繋がるの?」
「すこしはな」とアルフがうなずいた。「あの時、おれは彷徨っていた。雨の中彷徨っていた。そしてこの洞窟にたどり着いた。中は暗くて、何も見えなかった。だから、その布着や、ほかに何かがあったとしても、おれにはわからない。だが、人の気配が感じられなかったから、おれはそこで休むことにしたんだ。とにかくその時は、雨の冷たさから、外の寒さから逃れれば、それで良かった。不幸なことに荷物が雨で濡れていて、火を起こすことは出来なかった。それでも、おれは暗闇の中で眠り、目覚め、雨が止んでいることに気がつき、外に出た。月が出ていた。夜だったんだ。雨と眠りがおれに太陽の存在を感じさせなかったんだろう。しかしおれは歩き出した。月夜の中歩き、そして、ヤギトの町へとたどり着いた」
「それって……もしかして」
「ああ。つまり、その時にお前がおれに憑いたんだろうな。おそらく、セリムが死んでから初めてこの洞窟に立ち入った人間、それがおれだったんだ」
「でも、わたしの意識がはじめて芽生えたのはヤギトの町だったのよ? あの、あの裏通りで、あなたが見つめていたときが生まれた瞬間なの」
「おれが洞窟から出て、はじめて後ろを見たのがヤギトの町だった。後ろを見なければ、お前は存在しなかったんだ」
「そんな……」
「謎でもなんでもない。こんな単純なことだったのさ。お前がおれに憑く理由なんて」
「……そう、ね」
「外に出よう」
 二人は外に出た。洞窟から出た。外はいまだに月が出ていた。朝日は昇っていなかった。そこはまだ夜の世界、月の世界だった。アルフは崖に、断崖へと近づく。セリムもそれに倣う。崖下は見えなかった。そこは夜の空のように暗かった。アルフは横を見た。彼女を見た。セリムもアルフを見た。二人は見つめ合った。
「……思い出した」とセリムがつぶやいた。「わたしの死んだ理由。それを、思い出した」
 アルフは何も言わず、続きを待った。夜は静かで、月はあたたかく、星は煌めいていた。セリムは夜空を見上げ、にっこりと微笑んだ。
「わたしは、お母さんと共に死んだ。お母さんはわたしを、腕の中に、胸の中に、包み込んでくれていた。災いの病気にかかっても、お母さんはわたしを離さなかった」
「……セリム」とアルフが言った。しかし、それから先は何も言わなかった。二人の間に静かな時が流れた。ゆっくりとした、緩慢な時の流れ。それは旅人アルフと、憑き物セリムの、二人だけの空間だった。
 そして、アルフが腕を出し、セリムの肩に触れ、そっと抱き寄せた。それから数秒、数十秒、アルフはセリムを包み込み、セリムはアルフの腕の中に包み込まれていた。全ての謎が、こうして、解けた。
 その時だった。これが幻想と言わずになんというのだろう。
 セリムが光り輝いていた。アルフは彼女を見下ろし、セリムは彼を見上げた。セリムが数回まばたきを繰り返してから、自分の胸元へと目線を落とし、アルフから離れた。アルフの元から、離れた。
 そして光が瞬いて、夜の薄闇を白に染め上げる。セリムはその中心にいた。彼女の赤毛が、赤い月の光を受け、輝き、共鳴して、華やかに踊っていた。その全ての光の中心に彼女がいた。そして、彼女は消える。ゆっくりと消えていく。アルフはそれを、彼女がやわらかく、そしてゆるやかに消えていくのを、静かに見つめていた。この一連の流れの意味を承知した上で、彼はそれを見つめていた。
 そして、セリムが天に召されてゆく。あの高貴で、誇り高い、月の世に。
「ありがとう」とセリムは最後にそう言った。
 アルフは微笑んで、うなずき、「こちらこそ、ありがとう」と返した。
 穢れなき夢のように、鮮やかな幻影となってセリムは消えた。やがて時が経ち、荒々しく朝日が昇る。アルフは右手から立ち昇るその雄雄しい星を眺めた。こうして月の世界が終わった。これからは太陽の世界になるだろう。
 しばらくしてから、アルフが歩き出した。セリムはもういない。セリムは月の者となった。やさしく清らかで、涼しくもあたたかい、美しき月の化身となったのだ。だからもうアルフは一人だ。いつものように、遠い記憶と近しい記憶を抱きながら、歩き出すのだ。しかしただひとつ、確かなことが出来たようにアルフは感じた。だからアルフは歩き出すのだ。一人のツキモノを思い描きながら、この太陽の世界の下で、力強く、歩き出すのだ。
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