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第二章 = Chapter 2
01.
第二章
−へんぼう−
 それは半年前のことだった。
 季節は冬、雪が辺り一面に広がり、吐く息が白くなるような肌寒いときのこと。ディアはイルの小川に水を汲みに来ていた。そして大きな水釜を冷たい水で満たし、それを車輪の付いたお手製の荷台に載せた次の瞬間、ディアはある存在に気がついた。イルの小川の上流から、なにかが流れてきたのだ。大きさは子供一人分ぐらいで、色は黒っぽい茶色をしている。なにやら生き物のようだった。
「なんだろう、あれ」
 ディアは思わずつぶやいて、それをよく見てみようと川の岸辺に近づいた。その物体は川の中ごろを漂っていて、ごろごろと転がるようにして流れていた。川底が浅いからだ。そしてその物体の顔がこちらを向いたとき、ディアは驚いて声を上げていた。
「シカだ!」
 それは確かにシカだった。しかも、この時期ではなかなかお目にかかることが出来ないノロジカだった。ノロジカは普段、単独か家族で行動することが多いため、警戒心が強い生き物だ。その分、肉のうまみは格別のものがあった。
 早速ディアは、なにか棒みたいなものがないか辺りを見渡してみた。しかし、残念なことにそれらしきものはなにもなかった。ノロジカをもう一度よく眺めてみる。どうして小川を流れているのかは分からないが、ラッキーなことには代わりがなかった。狩をする必要がなしに手に入るかもしれないのだ。ディアはごくりとつばを飲み込んで、思い切って川の水面に足を踏み入れた。
 身を切るような冷たさだった。ディアは思わず足を引っ込めた。しかしノロジカはごろごろと流れていってしまう。ディアはこぶしを握り締めて、もう一度足を踏み入れた。
 なんとかノロジカの近くに行くことができたディアは、躊躇いつつもノロジカの角に手をかけた。川の流れに逆らう形となったため、危うく転びかける。ディアはなんとか体勢を維持しながら、ノロジカを引っ張ろうと力をこめた。しかし大変な重さだった。ディアの細い体で運ぶのは無理そうなくらいで、その場でノロジカを流さないようにするだけで精一杯だった。ディアはどうやってこれを川岸まで持っていこうかと考えた。すぐにぴんとひらめいた。
(川の流れに逆らっちゃダメなんだ)
 ディアは川の流れに沿うような形で、ノロジカの進行方向を変えてみようと努力してみた。うまい具合にノロジカが川岸へと向かっていく。ディアは微調整を繰り返しながら、ようやくノロジカを岸にまで持っていくことに成功した。
 岸辺での一休みのあと、ディアはノロジカの様子を仔細に観察することにした。大きさはやはり子供一人分ぐらい。ノロジカは本来小型の動物だから、おそらくこいつは大人だろう、とディアはあたりをつけた。
 次に毛皮を手で押してみることにする。弾力があり、まだ死んでから間もないようだ。それに臭みもない。食べるのに支障はないはずだった。
 それからディアは、背後にあるお手製の荷台に目を向けた。水釜のぬめりとした表面が、太陽の光に反射して輝いている。ディアはそれをしばらく眺めたのち、荷台に近づいて水釜を地面に下ろした。そして荷台をノロジカのところにまで引いていく。荷台の大きさはノロジカといい勝負だから、問題なくそれを載せることができそうだった。そして作業をなんとか終えてから、ディアはそれを自分の丸太小屋にまで運んでいった。
 獲物を手に入れてからの作業は二通りに分けられる、とディアは考えていた。まず一つ目は、すぐに切り取って食べるというもの。余った肉は干し肉にして保管すればいいから、いつもはこの方法を選んでいた。そして二つ目のほうは、肉に解体してマースンおじさんの家に持っていくというものだ。獲物をそのままマースンおじさんに渡してもいいのだが、しかしディアにはそれをそのまま持っていくだけの力がなかった。肉を解体するというのは、つまり余分なものをカットするということだから、重さもずいぶん軽くなるという寸法なのだ。
 そしてディアは、このノロジカの運命を二つ目のものにするつもりだった。
 マースンおじさんの家に獲物の肉を持っていくというパターンは、基本的に月に一回ぐらいで、それ以外にはディアは村に近づくことさえしなかった。村で食べられる肉の種類は、羊肉、豚肉、牛肉、鶏肉の四種類。ディアがよく狩をして手に入る肉は、イノシシやシカ、ウサギにヤマバトなどで、村の人びとには貴重なものだった。そしてディアはそれらの肉と交換に、主食であるパンや、新鮮な野菜、スープのための調味料などを得ているのだ。
 つまり、一ヶ月ぐらい経つとパンや野菜が切れてくるため、ディアは月に一回ほど、マースンおじさんの家に肉を持っていく、ということをしていたのだ。
 しかし今回のそれは、いつもの状況ではなかった。つい一週間ほど前に、ディアは村に下りていたのだ。
(ノロジカだから)とディアは思った。(ノロジカのおいしさはキティだって認めているもの。だからこのノロジカは、マースンおじさんのところに持っていく)
 この地方の冬の寒さは凄まじいものがある。吹雪になった夜の明け方には、空が一面光って見えるほどに寒い日が、この季節いくつかあるぐらいだ。そしてそのもっとも寒い、冬のごく一部分が、まさにこのときだったのだ。
 ノロジカの解体作業を終え、その肉が入った布袋の紐口をぎゅっと縛ってから、ディアは水釜の水で手や顔を洗った。寒い風が空き地に吹きすさぶ。ディアはすぐに濡れた手と顔を布で拭い、あったかな服装に着替えた。それから空を見ると、もうだいぶ日が暮れているのに気がついた。もう少しで夜になってしまう。ディアは急いで肉の入った布袋を、さきほどの車輪の付いた荷台とは別の、そりの形をしている荷台に乗せ、そこについている紐をぐいぐいと引っ張っていった。
 山道の地面に真っ白い雪が少なくなり始めたころ、ディアはなにかの物音を聞いた。足を止めて耳をそばだてると、それがなにやら人の声によるものだとわかった。ディアは気を取り直して、そり型荷台を引っ張り始めた。
「それにしてもまいったよ」
 その声を聞いて、ディアは身体を硬直させた。この声はマースンおじさんやポーラおばさんのものではない。ましてやその子供たちのものではありえなかった。がらがらとした低音の声、ねっとりとした発音。ディアの耳にこびりついてはなれない、一種のトラウマ的ボイス。
 それは、村長の声だった。
 ディアは反射的にしゃがみこんだ。目をつぶって、両腕を抱え込む。しかしそこではっとした。マースンおじさんの声が聞こえてきたからだ。
「まあそう気にするなよ、ジョンソン」
 ディアは顔を上げ、目の前の状況を確認した。道はうねって先が木々になっている。その木々の配置にディアは思い出した。ここはマースンおじさんの家のすぐ近くを迂回しているところだ。だから声が聞こえてきたのだ。つまりディアの姿は見られていない。
 大丈夫。
「いや、そうもいかんのだ」村長の声が続いた。「わしがきっちり言ってやったのにもかかわらずなんだよ、あの小僧。――いや、女の子だったか」
 ディアは荷台の紐から手を放して、忍び足で木々の中に入っていった。すぐそこにマースンおじさんの家の裏口が見えた。その脇に二人の男の人が立っていた。一人はマースンおじさん、もう一人が村長だ。
「ディアの二の舞だけはごめんだからな、わしは」
 村長のその言葉を聞いて、ディアはこぶしを握り締めた。しかしどうしようもできない。ディアは身をかがめて二人の様子を伺った。
「ジョンソン、そのことなんだが」
「聞き飽きたよ、マースン」村長がおじさんの声をさえぎった。「いい加減にしてくれ。もう何年になると思っているんだ。あれのせいでわしは、わしはなあ」
「だからそれはだな」
「いいや、お前はわかっとらん」
 ディアは話の方向があのことになるのではないかと思い、緊張して唇をかんだ。
「まあ、とにかくだ」村長がそういって咳払いをした。「あの子の振る舞いには十分注意してやらねばならん」
「ふむ。しかしそれを私に言ってどうするんだ」
「わかっとらんな、マースン。このことをお前からもみんなに言ってはくれんかな、ということだよ。お前さんは村一番の働き者だし、一番の地主でもあるからな」
「地主じゃない。土地は領主のものじゃないか」おじさんの憤慨する声が聞こえた。「毎年どれだけの収穫物が取られると思ってるんだ。むしろ村一番の被害者だよ、私は」
「まあそういうなよ、マースン」村長がからからと笑った。「とにかくみんなに言っておいてくれよ。それにお前さんは巨人祭りの重要人物でもあるからな。責任がある」
「……わかったよ、ジョンソン」
「デュノーケル卿も来るらしいし、巨人祭りの成功は必要不可欠なんだ。何度も言うようだが、あの子の振る舞いには気をつけてくれよ。ディアのような子だ。それに加えてあの母親みたいに思い込みが激しいからな」
「――ディア?」
 ディアは自分が前に出ていることに気がついていなかった。マースンおじさんと村長の二人が目を丸くしてディアを見ている。白い息が漂い、冷たい沈黙が流れた。
「ディ、ディア?」マースンおじさんがいった。「お、おまえ、どうしてそこに――」
「おじさん!」ディアが叫んだ。「ごめん!」
 そしてディアは振り返り、自分の空き地へと走りだした。ノロジカのことは頭から消えていた。頭にあるのは、村長の言葉だけだった。
 そしていま。
 ディアは立ちすくんでいる。
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