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第一章 = Chapter 1
10.
 東の空には光り輝く太陽がある。白くて黄色くて、時には青く見えるその太陽を、ディアは眩しげに眺めた。すがすがしい陽気が辺り一面に広がっている。ディアは軽やかに足を踏み出した。朝日の後押しもあってか、気分が良かった。不思議な気持ちだった。
 自分の丸太小屋へと続く山道に入る瞬間、ディアは立ち止まった。
 左に顔を向ける。
 マースンおじさんの赤レンガの家があった。
(……ぼくは、幸せなのかな)
 ディアは思った。
(うん、幸せなんだ)
 さらに左へ視線を移し、村を眺めた。
 山間に囲まれた、小さな田舎村。
 ずっと遠くのほうには濃い藍色の山脈がある。その上に広がる空は鮮やかな水色だ。山と空の間には、薄くて白いもやが懸かっていた。空気が澄んでいて、湿気は全く感じられない。からっとした気持ちのいい朝だった。
 その手前には、緑色の草原が広がっていた。そこには丸くて白いものがたくさんいる。羊たちだ。ずいぶん前に毛刈りをしていたから、いまでは羊毛がふさふさだった。
 さらに手前に目を移すと、村の大広場が見つかった。そこには村の酒場やパン屋、村長が住む大きな屋敷や役場があった。人らしき影も多く見える。それから村の大通りを通ってこちら側に来ると、石造りの大きな橋があった。村を両断する大きな川、ルーン川の上を渡る橋だ。その近くには水車小屋もあった。独特な形をしているけど、ディアは残念ながらその詳細を把握していなかった。
 そしてルーン川の周辺には赤レンガの家が立ち並んでいた。ばらばらに、けれどどこか整列されていて、その間は緑でいっぱいだ。いくつもの煙突からは白い煙がもやもやと吹き出ている。ディアはお腹に手を当ててみた。食欲はなかった。
 それから左のほうは畑だった。小麦や大麦、ライ麦なんかの畑。他にも玉ねぎやトマト、アスパラガスにジャガイモなども揃っていた。黄色がかった緑の小麦や、灰色がかった緑のジャガイモの葉など、さまざまな色合いになった畑たちだ。そしてすぐそこにあるマースンおじさんの畑が一際大きくて、ディアはなんとなく誇らしい気持ちになった。トマトの赤がちらりと目に入る。食欲がほんの少し出てきた。
 ディアは深呼吸をした。
(この村は、こんなにも良いところなのに、どうして、村の人々は愚かなんだろう)
 ディアは空を見上げて、もう一度深呼吸をした。そこへ黒いものが目の端をよぎった。
(クロウタドリだ。昨日の奴と、一緒かな)
 たぶん違う、とディアは思った。昨日と今日とでは別物なのだ。たとえ同じ鳥だったとしても、一日を過ごした鳥は、昨日に比べるとやはりなにかが違っているはずなのだった。
 ディアは頭上のクロウタドリをもう一度眺めてから、ゆっくりとうなずいた。
(でも)とディアは村に視線を戻した。(だったら、この村の人たちは……?)
 視線をぐるりと巡らせる。村を一望した。
(もしかしたら、変わっているのかもしれない。マースンおじさんたちのように、良くなっているのかもしれない)
 だけどディアは回れ右をした。
 森に向かって歩きだした。
 目の前の石を蹴飛ばした。ころころと転がっていった。そして草に埋もれた。石は見えなくなった。ディアの前から姿を消したのだ。
 そしてディアは急に走り出した。右腕の鈍い痛みは相変わらずだった。それでも走り出した。巨人に食べられた後のように、ディアはそこを疾駆した。駆け抜けた。道が細くなり、険しくなった。固い地面の道から、やわらかい草地の道になった。さらに進むと道が途中で大きく迂回していた。蛇のように曲がっていた。
 でもディアは曲がらなかった。
 地面を蹴って、空中に飛んだ。ダイブした。草地へと、飛び込んだ。左肩からそこに激突した。夏草の上を滑った。右腕を庇いながらスライドした。そして止まった。
 ディアは大の字になって、空を眺めた。走り出す前のときと同じように、空を眺めた。でも今回は杉の木に阻まれていてよく見えなかった。だからクロウタドリは見えなかった。空と木以外なにもなかった。
 笑い出した。ディアは大きく口を開けて笑い出した。森の中でその声が響き渡った。ばさばさと鳥が飛び立った。それでもディアは笑い続けていた。
 やがておさまった。しばらく後のことだった。
「……本当に愚かなのは、ぼくなんだ」
 つぶやいた。
「本当はみんなと一緒にいたいのに。一緒に暮らしたいのに。仲良しになりたいのに。なのに、変なプライドが邪魔をする。村の人が愚かなんじゃない。ぼくが、愚かなんだ。ぼくが一番の、愚か者なんだ」
 ディアの胸にコオロギが飛んできた。大きな目をディアに向けて、すぐにどこかへいってしまった。ディアは薄汚れた胸ポケットに手をやって、何かを取り出した。変な人形だった。ひげに覆われた顔。図太い手足。茶色い布の腰巻。それは木で作られた人形だった。
「……巨人は本当にいるんだ。だったら、イルはどうなの?」
 ディアは人形をぎゅっと握り締めた。その変な人形は、ディアにとっては変じゃなかった。大切な人形なのだった。
「イルは、本当にいるの?」
 ディアはだれかにそう問いかけた。口に出してみた。でもだれも答えてはくれなかった。
 人形を元のポケットにしまって、ディアは立ち上がった。左手でおしりをぽんぽんと叩いて、ほこりを払った。草は取れたけど、ディアの誇りはとれなかった。
 ディアは歩き出した。村側じゃない、奥深い森の中へと。道に出て、ディアの住む小屋を目指して登っていった。
(イルの古木)
 ディアは歩きながら考えた。
(そこに行って、うたた寝をしよう)
 ディアは口をきつく閉じていた。しかし頭の中では喋り続けた。歩き続けながら、喋り続けた。
(いつもよりちょっと早いけど、かまうもんか。今日はずっと昼寝をしてやる)
 目の先に石ころが落ちていた。でもディアはそれを無視した。
(うたた寝をすれば、きっと気分が良くなるよ)
 ディアはそう結論をつけて、大きくうなずいた。そして遠くのほうに開けた場所が見えてきた。白い光でつつまれた空き地が、迫ってきた。逆に、村からは遠く離れていた。そこは完全に森の中だった。ディア以外はだれもいない、森の中だった。
(ディア)
 ディアは立ち止まった。
「だれ?」とディアはつぶやいて、背後に目を配った。
(ここにいるでしょ?)
 ディアは首をひねってから、もっと大胆に辺りを探った。空き地のほうからは聞こえてきていない。だとしたら背後の森の中だ。ディアは見当をつけて、視線を動かしていった。しかし、薄暗い森の中には人っ子一人いなかった。ディアは手を頬に当てて、もう一度辺りをよく見回してみた。しかしだれもいない。ディアはため息をついた。さっきのは空耳だったのだ。
(ここよ、ディア)
 飛び上がった。ディアは胸に手を当てて、身体を一回転させた。
「だ、だれ」
 木々が入り組んでいる奥のほうに目を凝らしてみた。だれもいない。ディアは高鳴る心臓を押さえて、生唾を飲み込んだ。もしかしたら木の陰に誰かがいるのかもしれない。ディアは怪しそうな目の前の木々に向かって駆け出した。そのままの勢いでその背後を見る。
 だれもいない。
「だ、だれかいるの?」
 ディアは怯えた。
(なにをやっているの、ディア)
 ディアは唇をなめて、すぐにでも逃げ出せる準備を整えた。しかし思った。いったい、どこへ逃げればいいんだろう?
(ディア、安心して。わたしはあなたの味方よ)
 そこでディアは悟った。目を上にやった。なぜかは知らないけど、とりあえず上にやった。
「も、もしかして、頭の中から?」とディアは小さくつぶやいた。
(ええ、正解。わたしはあなたの中にいる)
「だ、だれなの、あなた」
 ディアは慎重に尋ねた。しかし、不思議と気持ちは落ちついていた。さっきまでの恐怖心は消えてしまったかのようだ。ディアは生唾を飲み込んで、その人の声を待った。
 その人は小さく微笑んでから、こう答えた。
(わたしの名前はイルディーン。あなたの一番の友達、イルよ)
第一章
−おろかもの−

END
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