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 それは、遠い記憶のようだったし、しかし、つい最近のことだったような気もした。アルフが一人で旅に出た時というのは、そんな風に曖昧なものだった。いつ自分が旅に出たのか、そして、どういった経緯で旅に出たのか。彼にはそれが分からなかった。妙な話ではあるが、当のアルフにとってそんなことは、気を煩わせるほどの問題ではないのだった。
 そしてアルフは、ここヤギトの町へとたどり着いた。
「それで、その洞窟には金貨が眠ってるんだとよ。それもただの金貨じゃねえ。町の商人の資産を全て合わせても足りねぇくらいの価値だ。それさえあれば一生遊んで暮らせるし、好きなもんも食い放題。それこそ楽園のような人生が待ってるはずだぜ」
 町の酒場で酔っ払いに付き合っていたアルフだったが、いい加減にうんざりし始めていた。なにせこの酔っ払い、先ほどから小指大ほどのねばねばとした液体を飛ばしてくるのだ。あと数十分ここにいたら、そいつで小さな池ができそうなものだった。
「その噂はだれが言い始めたんだ?」
 とアルフが言ってみると、その酔っ払いは赤くなった顔をうんざりしたように歪めた。
「知るかよ、そんなこと。とにかくだ、あの洞窟に行ってみればわかるんだ」
 アルフはそれを聞いて、手元のグラスを一杯呷ると、こう告げた。
「行ってわかるくらいなら、明日の昼ごろにはこの町での金の価値はなくなってるはずだ」
「はあ? なにいってやがるんだ」
「まあいい。とにかくここはおれが払っといてやろう。だからもう話しかけるな」
 アルフはそう言うと酒場を出た。
 夜に現れる月は素晴らしい。それがどうしてなのかはわからなかったが、その月は涼しく、清らかで、とても高貴なもののような気がしたのだ。道端の雑草は生い茂り、古ぼけた小屋には苔が動き回り、酒場には変な酔っ払いでいっぱいなのに、その月は素晴らしいのだった。
 しかし、いつまでもこうして街中を歩いているのは決して良いことではなかった。夜の本来の役目は眠らせることであり、人は眠ることでしか疲れを取ることが出来ないのだ。そしてまたアルフも疲れており、眠くもあった。酒場に寄った理由も忘れかけているくらい眠いのだった。
 やがて宿屋の前にたどり着いたアルフは、懐に手をやり、皮袋を取り出して、中身を確かめた。わずかな枚数しかない銀の硬貨と銅の硬貨には、なんの魔力もない。アルフはため息をついたが、しかし、宿屋の中へと入っていった。その宿屋は、いかにも宿屋といった風情で、正面にカウンターが、左右に階段が、その上には吹き抜けとなっている二階の手すりがあるのだった。アルフはカウンターに歩み寄って、いくらだ、と尋ねた。店主は久しぶりの客に笑顔を振りまいて値段を言った。アルフが少しまけてくれといったら、店主はしぶしぶ値段を下げた。それに満足したアルフは、手持ちの硬貨を色褪せたカウンターの上に置き、部屋の鍵を借りて、右の階段を上っていった。上り終えると、左に曲がり、右に曲がり、部屋の入り口にまでたどり着いた。そして鍵を開け、中に入り、ベッドと小さな机しかない部屋の内装をろくに見もせず、真っ先にベッドへと向かい、どさりと倒れこんだ。まぶたが落ちてきて、それを阻止し、窓の外に目をやって、夜の景色を眺め、それから、ゆっくりと眠り込んでいくのだった。
 次の日の朝、アルフは金を得るため、町の役場へと出向いた。役場の中にいるのはいつも暇そうな人間たちばかりで、それらはなぜか壁の時計を気にしているのだった。しかしアルフはそんな当たり前の光景を気にも留めず歩き出し、奥の「仕事探しはこちらから」という張り紙の張った窓口へと向かった。窓口担当の人間は、茶色の髪を頭の後ろで一つに束ねた、くたびれた様子の中年の女だった。その女はさも面倒くさそうな表情でアルフを一瞥し、「なにか」と話しかけてきて、それから手元の書類に視線を戻すのだった。アルフはため息をつき、その女をじっと見つめた。女はその視線に気がつき、引きつった笑みを見せた。アルフは口を開いた。
「ここの張り紙を少しも理解していない、脳味噌が空っぽの連中だと勘違いするのは一向に構わないのだが、それでも気分よく仕事がしたいのなら笑顔を作るべきだな」
「は?」女が間抜けな声を出した。
「少なくとも、おれだったらそうするね。退屈で仕方がない仕事を退屈で終わらせるよりは、努力して、お互いが気持ちよく事を終わらせたほうが、楽しいはずだからな」アルフはそこで一つ間を置いて、「仕事を探している」と尋ねた。
「はあ」と担当の中年女はアルフを疑わしげに眺め回したあと、手元の書類に目をやった。そして、「いまあるのはこれくらいですけど」と言って一枚の用紙を差し出してきた。
 アルフはその紙を手に取り、そこに書かれているものを眺めた。箇条書きで三つの仕事を紹介されており、いずれも一日のみの仕事で、昼食ありという条件が付随されていた。アルフは数秒悩んだあと、「これがいいな」と言い、真ん中に書かれている項目を指差した。アルフが示したのは、簡単な荷物運びの仕事だった。女がうなずいた。
「わかりました。それでは、酒場に直接向かってください。こちらが用意した書状をお持ちになられれば先方はすぐに理解いたしますので」と女が説明したあと、手元の書類から一枚選び出し、それを手渡してきた。アルフが受け取った。
「どうも。お互い気持ちよく、スムーズに行えた。感謝する」
 アルフは笑顔を残してその場から去った。中年の女はぽかんとしていたが、すぐに退屈な作業に戻り、時計を気にしながらのつまらない一日を過ごすのだった。
 酒場に出向き、店主に紙を渡すと、すぐに仕事内容を説明された。どうやら、酒瓶をある屋敷に届けてほしいそうだ。その酒瓶の量はかなりのもので、とても一人では運べそうにないものだった。しかし、雇われたのはアルフ一人だけで、店主のほうは店の準備に入るので忙しくなるため、このとてつもない量の酒瓶を運ぶ仕事はアルフだけの仕事となった。他にやることもなく、いまから再び役場に戻るのも骨が折れるので、アルフは仕方なく、それらの酒瓶を何回かに分けて運ぶことにしたのだった。
 そうこうするうちに一日が過ぎ、アルフは給料と余った酒瓶を貰って昨夜の宿屋に戻っていた。金貨を数枚カウンターの上に置いて、今度は比較的ましな部屋に通された。アルフはその豪華な部屋の窓から、昨日と変わらない月夜に照らされたこの寂れた町を眺め、酒をごくごくと飲み、アルコールが程よく回ったころ、ようやく眠りに落ちるのだった。
 その次の日、アルフは町の大通りを歩いていた。目的はなく、ただ、歩いていた。ここは大通りというには驚くほど人が少ないが、ヤギトの町ではもっとも人が多い場所だった。歩く人々はみんな辛気臭く、野暮ったく、疲れた表情をしていた。
「ちくしょう、誰か助けてくれ!」
 通りの先のほうから、鋭い叫び声が風に乗ってやってきた。なにやら騒がしく、アルフは気が向いて、そちらに向かった。
 そこには青い服を着た男と、頑丈な体つきの男が、数メートルの距離を挟んで向かい合っていた。どうやら先ほど叫んだ方は青い男らしい。なにしろ、服に土がこびりついていたし、地面に転がってもいたからだ。
「よし、俺が助けてやる」
 アルフのとなりにいた背の小さな男が名乗り出た。見渡してみると、二人の男の周りには大勢の人々が集まっていた。先ほどまでの大通りの人口が、一気に増えたようだった。
「ちょっと待てよ、助ける相手が間違ってるぜ」頑丈な男がいった。
「なんだと? どういうことだ」背の低い男がいった。
「俺はこいつに金を貸したんだ。それなのに、いつまで経ってもこいつは返さなねえ。問い詰めてやったら、いきなり殴りかかってきた。だから外に連れ出して、投げ飛ばしてやったんだよ」
「そうだったのか」背の低い男が納得して、青い服に迫った。「おい、お前! こういうことはやめたほうがいいぜ!」
「ま、待ってくれ! あいつの大嘘にだまされるな! 金を貸したのは奴じゃない、この俺だ!」
「おいおい、どっちだってんだ」背の低い男がそういって、周りにいた群衆もそれに賛同した。
「じゃあ、二人に聞いてみようか」とアルフが前に出た。視線が突き刺さったが、アルフはそれを無視した。「いま持っている金の額は? いや、いい。財布を出してみるんだ」
「わ、わかった」青い服が出した。
「そちらさんは? 出さないのか」アルフが問う。
「そんなこといまは関係ないだろ。それに、金はこいつに貸してるんだ、あるわけがねえ」
「わかった。嘘をついたのはお前だな?」アルフは頑丈な男に指差した。
「な、なんだと? 言いがかりだ!」
「なんで人に金を貸せるだけの奴がいま金を持っていない? 人に金を貸せるだけ持っている奴だけが人に金を貸すんだ」
「た、たしかにそうだ! お前が嘘をついたんだな!? 覚悟しろ!」
 背の低い男がそう叫んで、頑丈な男に飛び掛かった。頑丈な男は最初それを跳ね除けたが、周りにいた人間の思わぬ加勢に押されて、ついに撃沈した。アルフは静かにそれを見守り、すぐにその場から離れた。
「待ってください!」右を見ると、青い服の男がいた。「お礼を、させてください!」
「そんなことより、あいつから金を返してもらうのが先じゃないのか?」
「そ、そうでした」
 青い男が争いの真っ只中へと走っていった。アルフは再び歩き出した。しばらく行くと、景色がだいぶ変わってきた。この町の中央を分断している大通りの、終点にまで近づいているようだ。町の出口がすぐそこにあった。
 ヤギトの町を出るのは、いまではない。そう考えていたアルフは裏道へと足を向けた。裏道はとてものどかな道だった。町の住人が時々通るような道で、子供たちの遊び場でもあった。左右に木造の民家がドミノのように並び、そこの窓からは洗濯物がぶら下がっていた。そんな道をアルフはのんびりと歩き、民家のポーチで寝ている猫たちを撫でてはごろごろ言わせ、愉快な気分になったのだった。
 ふと、後ろに振り向いてみた。
 女の子が立っていた。アーモンド形の目を持ち、くりくりとした赤毛が可愛らしい、小さな女の子だった。その子が、じっとアルフを見つめていた。しかし、見覚えはない。なぜ自分を見ているのかわからなかった。
 アルフはその女の子を無視することにした。だから歩き出した。
 裏道がやがて比較的大きい通りに出て、それがまた大通りに合流した頃になって、アルフはもう一度振り返ってみた。
 先ほどの女の子が立っていた。やはりアルフを見つめている。
「どうしてついて来る」とアルフが問う。
「知らない」と女の子は答えた。それは透き通るような声だった。歌を歌わせたら、さぞや素晴らしいものになるだろう。劇場に出ても良さそうなくらいだ。そんなことを思わせる、綺麗な声であった。
「知らないってことはないだろ?」アルフは腕を組んで、女の子を見下ろした。「よし、じゃあこう聞こう。これならわかるはずだ。君はだれだ。どこの子供だ」
「知らない」
「……捨て子か。だったらおれにはついて来るな。飯をやれるだけの金は持っていない。別の人間にすがるんだ」
「無理」
「なんだと?」アルフは目を丸くした。「わかった。それならこうしろ。役場に行くんだ。そこならいろいろ援助してもらえるし、運がよければ孤児院にまで連れて行ってくれるかもしれない。とにかくおれには何もできん。ここの人間じゃないんだ。場所はわかるか?」
「知らない」
「しょうがない。そこまで連れてってやる」
 アルフは再び歩き出した。昨日行った役場まで歩き続けた。後ろは見なかった。
 役場にたどり着いて、ようやくアルフは振り返った。女の子は変わらぬ距離でそこに立っていた。ずいぶん早く歩いてきたのに、疲れている様子はなかった。
「ここが役場だ。中に入って大人に話しかけるんだ。助けてください、とか、困ってるんです、とかな。ここの連中は暇な奴ばかりだからすぐに相談に乗ってくれるぞ。わかったか?」
「知らない」
「おいおい……それはないだろ。まあ、いい。とにかく、この中に入ればいいんだ。ほら、さっさと行け」
「無理」
「知らない、無理、そればかりだな。もう少し語彙を増やしたほうがいいぞ。お前、年はいくつだ」
「知らない」
「なるほど。まあ、捨て子だしな。いままでどうやって生きてきたんだ?」
「知らない」
「その日暮らしか、可哀想に。だが、おれにはなにもできないからな。さあ、行くんだ」
「無理」
「……理由を言え」
「知らない」
「なんだってんだ! おれをからかってるのか!? いい加減にしろ!」
「……ごめん」女の子がうつむいた。
「……ちっ」
 アルフは自分のくしゃくしゃの髪を掻いた。最近は水浴びもしていなかったが、昨夜、備え付けの水場で体を綺麗にしていた。だからいつも汚い自分の髪は、いまだけは清潔だった。アルフはそんなことを考えながら目の前の女の子をどうするか悩んでいた。
「……悪かったよ、怒鳴ったりして」とアルフはため息をつきながら言った。「とりあえずお前をこの中まで連れて行ってやる。それでだれかに話しかけてやる。それでいいんだろ?」
「うん」
「よし、それじゃあいくか」
 アルフは役場の中に入っていった。そこでは昨日と同じ光景が繰り広げられていた。仕切りで区切られている広間には数人しかおらず、客のいない公務員たちはお茶をすすり、時計を見て、なにか仕事がないかと辺りを見回しているのだった。奥の窓口を見てみると、昨日の女が頬杖をついてぼーっとしていた。アルフは誰に話しかけようかとしばらくその場で突っ立っていたが、やがて歩き出し、「お困りの方はこちら」と言う張り紙のある、奥から二番目の窓口を目指した。そこでは中年の男が本を読んでいた。頭は見事に禿げ上がっていた。
「ちょっと」とアルフが言った。
「はい? なんでしょう」
「浮浪児についてなんだけど、この町はそれについてなにか対策をとっているのかい?」
「ええ、孤児院に連れて行きますよ。子供たちには明るい未来が用意されていなければなりませんからね。孤児院の運営費は税金でまかなっていますが、それは子供たちのためですのでご理解ください。ここ、ヤギトの町では皆さんの税金を決して無駄には使いませんよ」
「そうか。それじゃあこの子をそこに連れて行ってくれ」
 アルフは後ろの女の子を指差した。彼女はじっとアルフを見つめていた。頭の禿げた男はそちらを見て、それからアルフに視線を戻した。なぜか訝しげな目だった。
「どこにいるんです?」
「どこにって……後ろにいるじゃないか」
「いや、私には見えませんけどね」
「見えない? どういうことだ」
「だから、そんな子はいないじゃないですか」
「この、赤毛の女の子だぞ? 見えないわけがない」アルフは彼女を窓口まで引き寄せた。「ちょっと、君、君は見えるだろ?」
 横にいる、昨日の女に声をかける。女はさきほどから気になっていたのか、すぐにこちらに顔を向けた。
「えっと、見えませんよ」少し見渡してから、女は言った。
「なんだって?」アルフは愕然とした。「そんなはずはない。ここの連中はどうかしているのか?」
「どうかしているのはあなたのほうですよ」女がさげすんだ目を向けた。
「冷やかしならやめてください。私たちは、こう見えて忙しいんですよ。仕事があるんです。すぐにお引き取りください」
 男に言われるまでもなく、アルフはすぐに女の子を連れて役場から出た。外に出て、アルフはこの状況を理解しようと試みた。しかしうまくいかなかった。原因はなんだ? この女の子だ。
「お前、いったいなんなんだ?」
「知らない」
「おれに見えて、ほかの人間には見えていない。ということは、どういうことだ」アルフは考えた。そして、「そうか」となんとなく結論を出した。「どうやら、頭がおかしくなっちまったようだ。昨日飲んだ酒がいけないのか? それとも、いままでろくなもん食ってなかったからか? ああ、くそ、なんだってこんな――」
 アルフはきっと女の子を睨みつけた。女の子はびくっと体を震わせた。
「これが、妄想だと?」アルフは女の子の肩を掴んだ。それは華奢で、骨ばっていて、冷たく、小さいながらも、実感のあるものだった。「そんなはずがない」とアルフが言って、手を離した。すると、女の子が見上げて、アルフを見つめた。
「……違う。あたしは、妄想じゃない」と女の子が言った。
「じゃあ、なんなんだよ」
「……知らない。気がついたら、あなたの前にいた。それで、なぜか離れられなくなった」
 アルフは黙って女の子を見た。そして彼女は唾を飲み込んだ仕草を見せて、「あたし、幽霊かも」とつぶやくのだった。
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