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 アルフはその女の子を見つめた。その時ちょうど、突風が吹き、砂が舞った。舞うのは砂だけではなく、彼女の赤毛もゆらりと舞った。すぐそこの役場の窓ががたがたと鳴り、アルフは女の子から視線をそらした。
「冗談だろ?」
 アルフのその言葉は、なぜか自信がなく、いつもの彼らしくなかった。
 女の子は首を横に振って、アルフの目をじっと見つめた。彼女の目には強い光があった。いま太陽は西の空にあるはずだが、そこには分厚い灰色の雲が陣取っており、このヤギトの町には光があまり届いていなかった。そのせいで、町だけではなくアルフの心まで深海のように暗く冷え切ってしまっていた。しかし女の子の目の光は、それらの暗い雰囲気を払拭してくれるような、そんな力も持ち備えているのだった。
 その光が、徐々に、陰りを帯びてきた。アルフは戸惑い、彼女の肩に再び触れようとしたが、迷い、結局何もしないで、手を空にさ迷わせた。そのとき女の子の目がアルフの目から離れることはなかった。この時になってようやく突風が止み、砂が元の位置から数メートル離れた場所に舞い降りて、がたがたいう窓が静まった。二人の間に、静かな時が流れた。
「世の中、わからないことだらけだ」アルフがいった。彼の言葉には自信が戻っており、いつもの彼らしい力強いものになっていた。「洞窟に大金が眠ってるなんてよくわからない噂が広まっているし、昔買った地図がいつの間にやら使い物にならなくなっている。そして、おれがどこから来て、どこに行くのかもわからない始末だ。お前が幽霊だって? 大いに結構。この世は、よくわからないことだらけなんだからな。信じてやる。信じてやるよ。お前、名前は?」
「知らない」
「そうだ、そうだったな」
 アルフは視線を後ろに向けた。その方向の先には彼が昨日と一昨日泊まった、あの宿屋らしい宿屋があるのだった。
「おれはもう宿に戻る」アルフは視線を変えないまま、静かに言った。「後ろは振り向かない。だから、お前が大嘘をついていて、逃げ出したとしても、おれにはわからない。つまり……おれの言ってることがわかるか?」
「なんとなく」
「よし」アルフがうなずいた。「それじゃあ行くぞ」
「うん」
 そのあと二人は、揃って宿屋にたどり着いた。宿屋の店主はアルフの姿を見て、にっこりと笑った。アルフはその時になって初めて、この店主の前歯がひとつ抜け落ちていることに気がついた。カウンターには一人分のコインしか置かなかったが、店主は何も言わずに二人を歓迎した。アルフは左手の階段から上り、一番奥の扉の前にまで歩いていった。その一連の流れの中で、彼は一度たりとも女の子がいることを確認しなかった。女の子はただついてきているだけで、一言も言葉を発さなかった。アルフは扉を開け、鍵も閉めずに奥のベッドに向かい、天井を仰ぎ見てから、そのままごろりとベッドに寝転がった。仰向けになった彼は目を閉じ、数をいくつか数えた。
 ここへ来て、ようやく、アルフはついてきた女の子を見た。
「……幽霊、か」
「うん」
「腹、減ったか?」
「……減ってない」
「そうか。幽霊だもんな、お前」
「ごめん」
「気にするな」とアルフはうなずいて、上体を起こした。「それで、だ。これからどうするか決めないといけない。お前、自分が死ぬ前のことを覚えていないか?」
「死んだ前? ……無理」
「わかった。つまりお前は、なにも知らない。どうしようもないわけだ。幽霊の意味をいま考えても仕方がないし、お前の存在意義についてもわからないまま。そこでおれがするべきことは、ただ一つ。なにもしないことだ」
「……わかった」と女の子がうなずいた。
「つまり、おれはいつも通りの生活をする。旅をし、町に着き、仕事をして、また旅に出る。その繰り返しだ。幸いお前は何も食わなくても生きていけるようだから、おれにとって問題はなに一つない。宿代だっていつも通りだ」
「うん」
「さて、お前、といつまでも呼ぶわけにはいかないな。だから、名前を考えなければいけない。お前、名前も覚えていないんだろう? どうだ、今でもわからないか」
「うん」
「相変わらず語彙が少ないな。よし、そのことから名前をつけてやろう」アルフは腕を組み、しばらく考えてから、「セリム」とつぶやいた。「よし、それでいいな。お前の名前は、台詞が無い、から、セリムだ。いいか?」
「せりむ……わかった」
 アルフは彼女の返事を聞いてから、腰の袋から硬貨を一枚、探り出した。
「セリム」
 アルフはその硬貨を彼女に投げた。銅色のコインが弧を描きながら空を飛び、セリムはそれを見事にキャッチした。
「なるほど、物を掴むことはできるわけだな」
 アルフは感心しながらいった。そして、彼女の両肩をしっかりと触れたことを思い出した。
 それからアルフは様々なことをしゃべった。セリムはそれを聞き、たびたび質問をし、語彙を増やしていった。しかし、まだまだそれは小さな芽にすぎなかった。いずれそれが巨木になるのだろうか、とアルフはそんなことを思いながら、ただ、彼女にいろいろな話をしてやったのだった。
 その次の日。アルフが目を覚ました。アルフはベッドの上でシーツに包まっていた。何度も洗濯をし、よれよれになったシーツだった。
 セリムは部屋の隅で座っていた。両膝を引き寄せ、そこに顔をうずめていた。彼女は眠っているのではなかった。眠れないのだった。そしてそれがどうしてなのかもわからないのだった。
 アルフはベッドから下り、部屋を横切って、扉を開けた。廊下に顔だけを出すが、そこには誰もいなかった。廊下は薄暗く、朝を告げているかのように静まり返っていた。彼はそのまま廊下に出て、階段に向かって歩き出した。後ろから物音がした。セリムだった。気分が悪そうな表情で、青白かった。
「どうした?」とアルフが声をかけた。なにも考えずに、自然と出た言葉だった。
「……お腹が痛くなった」
「おれが離れたからか?」
「うん、そうだと思う」
「なるほど」
 その後に続く言葉はなかった。アルフは階段を下り、店主のいないカウンターを横切り、宿屋から出た。朝日が東の空から顔を出していた。雲が一つあるだけで、快晴だった。
 アルフは近場のパン屋で細長いパンを買った。一人分だった。アルフはそれをかじりながら、道を歩いた。昨日のように、ただ、歩いていた。しばらく行くと、朽ち果てたベンチを見つけた。縞模様の猫が気持ち良さそうに眠っていた。アルフは猫を起こさないように、静かにベンチに腰かけた。
 セリムは、相変わらず彼についてきていた。
「いつだったか、おれは猫に助けられた」
 アルフが突然いった。しかしそれは、いつものことだった。
「雨が降っていたときだった。それも土砂降りだ。風も吹き荒れ、目の前に襲ってくるような雨だった。おれは当然、雨宿りになる場所を探した。雨のせいで視界も悪く、ずぶ濡れのまま彷徨った。そしてわかったことは、そこらは荒野で、あるものといえば小さな石ころぐらいだったってことだ」
「それで、どうしたの?」
「猫がいた」
「どうして?」
「知るか、そんなこと。だけどな、その時たしかに猫がいたんだ。おれはその猫を信じて、ついていった。いまのお前のようにな。すると、小さな岩を見つけた」
「岩?」
「そうだ。そして、その岩に隠れるように、よく見ないとわからないように、穴が開いていた。地面に掘られていたんだ。その中に入ると、それが横穴だとわかり、自然に出来た洞窟だとわかった。そこは猫たちの住処だった。何匹もの猫がいた。縞の猫、ぶちの猫、あとは三毛猫に、尻尾がくたびれた猫とか、いろいろな猫たちがいた。おれはそいつらを刺激しないように、その洞窟で雨が止むのを待った」
 セリムは、アルフの話を黙って聞いていた。昨夜のように、彼女は聞いていた。
「雨が止み、外に出てみると、おれは驚いた」
「なんで? なにかあったの?」
「すぐそこは、崖だったのさ」
「崖? 崖って、どういうの?」
「地面がなくなっているんだ。その下は数十メートルもあり、落ちたら死んでしまう。おれが見た崖は、下が見えないほどの高さだった。そんな崖が、洞窟のすぐそこにあったんだ。おれが猫を信じてついていかなかったら、おそらく真っ逆さまになって落ちていただろうな」
「危なかったってことか」とセリムがつぶやいた。
「そうだ」とアルフはうなずいた。「それで、おれがいいたいのはこういうことだ。――なにもわからない状況でなにかをしようとしても危険なんだ。そういった時には、なにかを信じて、ただ、それについていくことだけしかないってことさ」
「それは、あたしのこと?」セリムが首をかしげた。
「違う。お前の場合は選択肢がない」
「じゃあ、なんで」
「知るか、そんなこと。自分で考えろ」
「……わかった」
 そのあと二人は宿屋に戻り、休み、店主に鍵を返し、アルフは役場へ行き、セリムはアルフにつき、素早く、滑らかに時が過ぎていった。時間というものは曖昧なものである。あるときには長く、あるときには短くなる。そしてこのときの時間は、食べ残したパスタのように短かったのだった。
 その次の日も、そのまた次の日も、アルフは仕事をし、金を稼いだ。セリムは彼にただついていき、語彙を増やしていった。
 そして、三日目の朝。曇り空のもと、アルフは旅に出る時がきたと確信した。
「旅に出る」
「どこに?」
「どこかに」
 彼らは静かに、誰にも知られることなく町の中央の道を通り、出口にたどり着いた。その頃になると、ぽつぽつと水滴が空から流れ落ちてきていた。やがてそれが川の流れのように大きくなり、しまいには滝のような豪雨となった。
 町を出る前に買っておいた傘を手に、アルフは歩き続けた。彼は自然とセリムを中に入れていた。雨が布地に当たり、大音響が彼らの耳に響いていた。
 ヤギトの町を出たのは、彼らだけだった。雨がほかの者を拒んでいたのだった。
 そして月日が流れた。
 太陽が昇り、くだり、また昇り、そして、くだっていった。アルフの髪が伸び、セリムの髪は伸びなかった。しかし、セリムの語彙は増えていき、いつしかセリム、という名前が不釣合いになった。それでも彼は彼女をセリムと呼び、また、彼女も自分のことをセリムであると認識していた。
 彼らの旅路は決して楽なものではなかった。そもそも、旅という言葉は同時に、苦労を意味しているのだ。だから彼らはその旅を楽しいものだなんて考えなかったし、言葉にもしなかった。彼らの間に交わされる言葉はわずかで、いつもアルフが一方的に発していた。二人の会話は、アルフが話し、セリムが聞く、というものになっていた。
 ある日、アルフたちは見知らぬ町へとたどり着いた。
「それでな、おれたちが歩いていくと、奇妙なりんごが落ちていやがったんだ。普通は、そんなもんに目もくれねえよ。だがな、なぜかおれたちはそのりんごに吸い寄せられていった。その時だ。あの恐ろしいことが起こったのは」
 その見知らぬ町の、見知らぬ酒場でのことだ。いつもアルフはどこかの町にたどり着くと、まずは酒場へ向かっていた。理由ははっきりとはわからないのだったが、彼はそれを情報収集であると秘かに思っていた。その秘かな考えは、いままで誰にも話していなかったが、セリムにだけは話していた。それ以外にも、アルフは普段決して口に出さない思いをセリムにだけは語っていたのだった。
「それで、どうしたのかしら」
「それで、どうしたんだ?」
 アルフは横に立っているセリムの言葉を受け継いだ。彼女は姿だけではなく、声も誰にもわからないのだった。ただし、アルフを除いて。
「聞いて驚くなよ。りんごが急に走り出したんだ」
「りんごが走る? 馬鹿言うなよ」
「ふん、頭の固い人間はこういう話が理解できないようだな」
「頭の固い以前の問題だろう? お前の頭がやわらかくなりすぎて使い物にならなくなっただけの話だ。アルコールの採りすぎじゃないのか? マスター、あんたこの男に酒をやりすぎだぞ」
「なんだと? おい、もっかい言ってみろ!」男が吼えた。
「一度でわかるように少しは頭を使え」とアルフが返した。
「ふざけるな! 表へ出ろ!」
 男が立ち上がった。
「まぁまぁ、落ち着いてくださいよ、お客さん。ほら、あなたも謝って」
 グラスを白い布で拭いていたマスターが言った。アルフは手元のグラスを眺め、ため息をついた。明かりを通して、グラスは薄い琥珀色に輝いていた。
「アルフ、謝らないの?」
 セリムが口を出してきた。
「わかったわかった。おれが悪かったよ。なにせ長旅をしてきたもんでね、機嫌が悪かったんだ。ほら、この通りだ」
 アルフは頭を下げた。男は静まり、座った。
「それで、どうしたのか聞いて」とセリムが言った。
「それで、どうしたんだ?」
「ああ、それでだ」男の機嫌はすっかり良くなっていた。「おれたちはりんごを追いかけていった。やがて街道から林道へ、森の中へと突入していた。おれたちはいつまでもそのりんごを追いかけていった。なんでか知らねぇが、とにかく追いかけていったんだ。そして、森を抜け、荒野に出た。そこでついにりんごが止まった。おれたちとりんごの目の前には洞窟があったんだ」
「洞窟? それでどうしたんだ」
「入ったぜ、もちろんな。中には驚くほどの金貨が眠っていた。おれたちは叫んだぜ、そりゃあもうな。大合唱をしながら袋に金貨を詰め込んだ」
「だが、お前の身なりは良くないな」と言い、アルフはグラスの酒を呷った。
「そうさ。金貨は手に入らなかった。なにが起きたと思う?」
「怪物が現れた、とか?」
 セリムが言った。アルフはそれを口にした。
「違う、そんな馬鹿な話があるか」
 セリムがうなだれた。アルフはそれを見て、「りんごが走るなんていう、馬鹿な話を聞いたからだ」と言いそうになったが、ぐっとこらえた。
「死体だよ、死体」と男が言った。「女の死体が転がってたんだ。おれたちは恐ろしくなって、すぐにその洞窟から逃げ出した。袋の金貨はいつのまにか消えてなくなっていやがった。おれはもう二度とあの場所へは近づきたくないね」
「死体ごときで逃げ出したのか」
「疫病だよ。その女、疫病にかかって死んでいたんだ。体中に黒い斑点がぼつぼつと浮き出ていやがったぜ」
「疫病か……それはたしかにごめんだな」
「そういうことさ」
 アルフは酒場を出、その町の宿屋に向かった。
 宿屋は、正面にカウンターがあり、左右に階段があるといういかにもな風情だった。アルフは古ぼけたカウンターに魔力の少ない硬貨を置き、部屋に向かい、部屋の扉を開け、ベッドに寝転がり、窓の景色を見ながら、ゆっくりと眠りについた。セリムは眠らず、アルフの代わりに外の景色を眺めていた。そしてそれは朝まで続いた。
 その次の日、アルフはその町の役場に出向き、仕事を探した。窓口に立っているのは年老いた男で、妙に間の開いた口調が特徴だった。アルフは仕事を貰い、金を稼いだ。セリムはただそれについてきているだけだった。
 こんな風に二人は旅をし、町にたどり着き、仕事をして、また旅に出るという生活を送っていった。
 そしてまた月日が流れ、その時になっても彼らは旅を続けていた。アルフは伸びた髪を切り、セリムは変わらず、くりくりとした赤毛を揺らしていた。ヤギトの町に再びたどり着いたのは、彼らが初めて出会った日から約二年後のことだった。
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