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 二年という歳月を、アルフははっきりと認識していなかった。それは遠い記憶のようでもあったし、しかし、つい最近のことだったような気もしていたのだ。いつだったか、彼はそれに似た思いを抱いたことがあった。アルフはそのような思いを、つねにかかえて旅をしてきたのかもしれない。
 そしてセリムはいつのころからか、よく笑うようになっていた。アルフの言ったことに興味を持ち、深い理解を示し、彼に笑いかけた。彼女の姿はあの頃とちっとも変わっておらず、ブロンズにも似た赤毛をゆらゆらと揺らし、アーモンド形の目がきらきらと輝く、あの時の女の子そのままだった。しかし、服装だけは違っていた。薄汚い布着から、なめし革でできた旅人御用達の服装に変わっていた。
「アルフ」とセリムが口を開いた。アルフにはその次の言葉がわかった。
 目の前には、大きな、山のように大きな、石の外壁があった。アーチ状の門には、絶えず人々が行きかっていた。馬車やロバに乗った旅商人たちが、町を警備する守備隊が、たくさんの人間が、門をくぐっていた。
 それはヤギトの町らしからぬ光景であった。
「ここが、本当にヤギトの町なの?」
「そうだ。この地図にはそう書かれている」アルフが手元の古ぼけた地図を見せた。「それにあいつを見ろ。たしかにヤギトの町と書かれているだろう?」
 旅商人の馬車が横切った街道の先に、木で作られた大きな看板が地面に打ち付けられていた。そこには大きく、伝統的なこの地方の文字で、ヤギトの町、と書かれていた。セリムはそれを見て、そうね、と答えた。彼女に文字を教えたのは、もちろんアルフだった。
「こんなに大きな町はいつ以来かしら」とセリムが言った。
「いや、ここまで大きな町はセリムがいる時には行っていない。初めてだろう」
「そうかしら」とセリムが首をかしげた。
「そうだとも。それとも、記憶が、死ぬまえの記憶が戻ったのか?」
「いいえ、違います。わたしの勘違いでした」
 実は、セリムの変わったところは服装だけではなかった。口調が大きく変わっていた。語彙が増えると同時に、知識も増え、言葉遣いも変わったのだった。それは小さな女の子の言葉とは思えぬほど聡明で知的な言葉使いだった。そこには気品が漂い、涼しくもあたたかい、それはまるで夜に映える美しき月のようだった。
「とにかく、入ろうか」とアルフが言い、二人は石の外壁の途切れている、アーチ状の門をくぐって、町の中へと入った。その時、多くの人間と、押し、押され合い、つまり、ぶつかった。セリムはアルフにぴたりとくっついていたが、同時に、押されてもいた。二年前のあの日からわかっている通り、彼女には実体があるのだった。わからないのは、セリムがなぜ霊なのかということだけだった。
 ヤギトの町は活気に溢れ、道路は綺麗に石畳が敷き詰められ、レンガで造られた建物が目立つ、貿易で栄えている大きな都市だった。そこは二年前の寂れた、野暮ったい町とかけ離れた、物資が豊かで交通量の絶えない、似ても似つかない町なのだった。
 二人は出店で大賑わいの道を通った。アルフはその道に見覚えがあった。その通りは、二年前の、あの日の、町の中央を横切った大通りに違いなかった。
 その大通りは数多くの商人たちの喧騒に包まれていた。左右から鋭い声が飛んできて、耳をつんざくほどやかましく、それらは全て熱気をはらんでいた。アルフは耳を押さえたい衝動を抑えながら歩き続けた。後ろにはセリムがついていた。アルフは彼女をちらりと見やり、その表情が自分と大して違わないことを確認した。
「公務員の横暴を許すな! われわれの税金を、血税を、やつらは貪り続けているのだ! それを決して許すな! 阻止せよ!」
 大声が飛び交うその大通りの中で、唯一アルフの気をひいたのはそんな言葉だった。二人がその方向を見ると、二十人から三十人の集団が大勢の人々を押しやって行進していた。いずれも木のプラカードを掲げていて、そこに書かれている文字は先ほどの言葉と相違なかった。
「あれはなに?」とセリムが聞いてきて、アルフは肩をすくめた。
「さあな。あいつらの言葉通りのことが起きているんじゃないのか? いずれにしろ、無理のない話だと思うがね」
「税金を私腹の肥やしにしているという事実は、本当にあるのかしら」
「そんなものは必要ない」アルフは憮然として言った。「こういうものは、暴動が暴動を呼ぶんだ。誰かが腹が立ち、叫べば、まわりの人間がそれを支持する。なぜなら、みんながみんな、腹を立てているからだ。たとえそれが関係のないものだとしてもな」
「でも、あんなことをして意味があるの?」
「おれに聞くな。とにかく、おれたちには関係のない話だ」
 そして、セリムはそうね、と答えた。
 二人は歩き続けた。活気ある大通りを歩き続けた。入り口付近の喧騒が少しばかり弱まり、周りの建物が木造に変わっていく頃になって、二人は歩みを止めた。目線の先に、朽ち果てたベンチがあった。そこに向かい、腰かける。セリムはアルフの横についた。座ろうとはしないのだった。
 静かな時が流れた。周囲は静かではなかった。二人の間だけに、静かな時が流れたのだった。
「そういえば、あの時もこんなベンチに座ったな」
 アルフがそう言うと、やはりセリムがそうね、と答えた。アルフは続けた。
「だが、あの時とは大きく変わった。俺も、お前も、そしてこの町も。こんな風に旅を続けていると思うんだ。なぜおれは旅をしているんだろうか、どうして一つの町にとどまらないのか、ってな」
「それで、どうしてなの?」とセリムが言った。
「わからない。だが、おれはそれでいいと思ってる。旅が特別楽しいものだとか、そういうんじゃないんだ。ただ、おれはなぜか旅をして、次の町へと向かってしまう。そして旅をする理由は、それでいいんじゃないかって思うんだ」
 セリムはそれを聞いて、少し黙り、やがて、口を開いた。
「覚えている? あの時のこと」
 セリムが珍しく話を切り出したので、アルフは少し戸惑ったが、すぐに答えた。
「おれがお前に話したことか? 猫に助けられたっていう」
「そう。わからない時にするべきことは、なにか信頼できるものに、ただ、ついていくことだって。わたしはそれについてずっと考えていた。そして、いつの日かあなたが言ったその言葉の意味がわかったの」
 アルフは黙っていた。セリムは続けた。
「わたしのことを心配してくれていたのね。自分についてこい、って。自分は信頼できるものだって」
「おれは知らない。お前がそう思いたいのなら、思えばいい。勝手にしてくれ」
「ええ、勝手にするわ。でも、わたしはそれに感謝したい。そしてアルフが旅をしていたからこそ、わたしは多くのことを教えてもらい、こんな風に言葉を紡ぐことができるようになったの。だから、わたしはそれに感謝したい」
「それは結構なことだな」
 そしてまた、セリムはそうね、と答える。彼女は多くの語彙を持ちながら、いつも同じ返答をしていた。
 そして二人は宿屋へ向かう。あの時と同じように、二年前と同じように、宿屋へと向かうのだった。
 しかし、宿屋はそこにはなかった。あの時の宿屋はいつのまにか民家となり、門ができ、警備を担当する人間が待ち構えるようになってしまっていた。しぶしぶアルフは別の宿屋を探すことにし、そしてすぐに見つかった。宿屋は数が二つも三つもあり、いずれも豪華な屋敷を思わせる、レンガ造りの、二階建てではなく三階建てか四階建てか、あるいはそれ以上の高さの、大きなものだった。手持ちの少ないアルフは、その中で最も薄汚れた宿屋を選んで、中へと入っていった。
 そこは、右手にカウンターがあり、正面に階段があり、左手には大きな広間がある、見知らぬタイプの宿屋だった。広間の先には通路があり、広々とした空間が広がっていた。天井を仰ぎ見ると、煌びやかで豪華なガラス細工のシャンデリラが釣り下がっていた。二人は呆けたようにそれらを見つめ、出入りする身振りのいい人間たちを見守った。
 やがて動き出した。顔が映るくらいに磨かれた大理石の床を通り、これまたつやつやに磨かれたカウンターの前に出た。そこにいるのは、歯の抜けた店主ではなく、若い女であった。カウンターには店主が座っていなかった。おそらくどこかで雇った、どこかで育った、品の良い女だった。そして、彼女が言う法外な値段にアルフとセリムが驚いた。アルフは袋の隅々まで調べ、ようやく一泊できるだけの金を探し出して、女の前に差し出した。そして鍵を渡され、なんと部屋の前にまで案内されたのだった。
 部屋は豪華で、アルフの知らぬ装飾品が部屋を埋め尽くしていた。しかし、アルフはいつものようにそんなものには目もくれず、ベッドへと一直線に向かった。そのまま寝転がり、目を閉じ、開け、ぼんやりと天井を眺めた。
「そういえば、今回は酒場には行かないの?」とセリムが言った。アルフは身体を起こし、答えた。
「そんな気がしないんだ。いつもはそんな気にさせられるんだが、なぜか今回はしなかった。おそらくこの町がそうさせるんだ。町の熱気に、疲れたんだ」
「そうね。でも、情報収集はどうするの?」
「いまはとにかく、休みたい」
「こんなとき、わたしが酒場に出向けたらよかったんだけど」
「それはおかしな話だ。そんなことができるのなら、そもそもお前と一緒にいない」
「……そうね」セリムが寂しそうに言った。
 アルフは彼女から目を離し、窓の景色を眺めた。その後、ゆっくりとセリムに目線を戻した。
「そういえば、前から気になっていたことがある。セリムは疲れないのか?」
「疲れないわ」とセリムがうなずいた。「なにせ幽霊ですから」
「普通は夜に寝ないと疲れは取れないものだ。幽霊というやつは夜の種族だから、疲れもないんだな」
 そして夜が訪れた。アルフは眠り、セリムは眠らなかった。彼女はただ、窓から見える町の様子を眺めていた。静かな、夜の時間を、夜の街を、夜の景色を、目に焼き付けるのだった。
 それが不意に、破られる。セリムがアルフを叩き起こした。寝ぼけたアルフは彼女を見つめ、その後、夜の静寂がないことに気がつく。突然外から大きな物音が聞こえた。なにが起こっているのか、覚醒したばかりのアルフにはわからない。セリムが何かを告げるのを待った。
「暴動が」とセリムが怯えながら言った。「町の人々が騒いでいる。武器を持って、松明を掲げて、叫んでいるわ」
「ちくしょう。すぐに逃げるぞ。ここは危ない」
 アルフは走った。扉を蹴りつけ、地面を蹴りつけ、外に飛び出した。
 外は、真っ赤に染まっていた。木造の家屋が燃え上がっていた。人々が武器を持ち、空に掲げ、叫び続けている。革命だ、革命だ、と。やがて殺戮が始まる。暴動に参加しないものは逃げ惑うが、捕まり、切り殺される。そして大勢の命が失っていく。
 二人は走った。幸い、セリムは姿が見えないので、見つかっても危険なのはアルフだけだった。だから彼は大胆に走り続けた。セリムも必死で追った。彼の憑き物として、必死で追い続けた。
 途中で、彼は大勢の集団に囲まれてしまった。彼らはすでに当初の目的から見失っているため、なにやら奇妙な言葉を吐き続けていた。アルフはなぜか、そこにいないはずのセリムをかばう姿勢をとった。
 しかし、それは意味を成さなかった。集団が、集団に襲われた。襲った集団にはどこか正常なものが感じられた。そして、アルフはそこに懐かしい人物を見つけた。
 二年前の、あの青い服を着た男がいた。屈強な男に騙されかけた、あの男だ。その男は今では鎧を身に着けており、たくましい肉体を保持していた。だが、アルフに気がついていなかった。男がいる集団は鋭く尖った武器で狂った集団をすべて刺し殺し、先へ進んでいった。その途中で、ようやく、青い男がアルフに気がついた。アルフの姿を見て、すぐに男は集団になにかを告げ、二人に近寄ってきた。集団は先を急いだ。
「久しぶりですね!」男が嬉しそうに言った。「私のことを覚えていますか? あの時お世話になった者です」
「ああ、覚えている。あの男から金を返してもらったというのに、今度は暴動か?」
「それなんですけど、実はあの後、あの小さな男が寝返りましてね。お金を全部取られてしまったんですよ。それからあいつ、どんどん仲間を増やしていって、今じゃあんな風に実力者になっちまって――」
「ちょっと待て」アルフが男の話を遮った。「どういうことだ? 旅に出てたからよくわからないのだが」
「そうなんですか。時間がないので詳しくはお話できないんですけど、あいつ、つまり大きいほうの男ですがね、なぜか町の役員になったんですよ。たぶん暴力かなにかを使ったんだと思いますが……。えーと、とにかくそれから、いろいろありまして、この暴動を起こしたわけです。あいつを叩き殺してやろうって目的でね。でもまあ、うまくいかないもんです」
「なるほどな」とアルフはうなずいた。「とにかく頑張ってくれ」
「そうだ、お礼がまだでしたね。町から逃げるんでしょ? この町の抜け道を教えますよ。正面の門は警備兵でいっぱいです。だれも出してくれません。さあさ、こちらです」
「時間はいいのか」
「近いですので」
 男が案内した場所は、地下水道の入り口だった。多くの町民たちが集まってきていた。暴徒がここに来るのは時間の問題だろうが、それまでには逃げられると、昔は青く、今は鎧を着ている男が教えてくれた。
「幸運を」
 男はそう言ってすぐに引き返していった。アルフとセリムは他の人間たちとともに地下水道に向かい、走り続けた。その道は意外にたやすく、短いものだった。すぐに出口にたどり着き、ヤギトの町から抜け出ることができた。出た場所は、荒野だった。そして彼らはそのまま歩き続けた。他の町民たちと一緒に、夜の荒野を、ただ、ひたすら歩き続けるのだった。やがて人々は減り始め、どこかに散らばっていった。
「これから、どうするの?」とセリムが聞いた。
「さあな。どうするか」とアルフが答えた。
 そこらに目印はなかった。その荒野には石ころが転がっているだけで、他は何もないのだった。
 彼らにこれ以上旅をさせるのは酷だった。つい先日旅を終えたばかりで、資金の貯えもなく、旅の支度がなにも出来ていないのだった。
「やはり酒場に向かっていればよかったな」アルフが悔しそうに言った。「この暴動が起きるのを察知できていた」
「でも、疲れていたんですもの。仕方がないわ」
「だが、やはり情報収集は大事だってことを思い知らされたよ」
「そうね」
 目の前に、りんごが出現した。
「りんご?」セリムが興味ありげに近づいた。
「どこかで聞いたような話だ」アルフもそれに続く。
 突然りんごが走り出した。いや、正確には歩き出した。しかし、いずれにしろとんでもないことが起きた。
「馬鹿な。こんな話があってたまるか」
 アルフが言った。それを見て、セリムが首を振った。
「わたしみたいな幽霊がいるのだから、そこまでおかしい話ではないんじゃない?」
「それにしたって、りんごが動く? りんごは動かないものだろう」
「そうね。食べるものよね」
「いや、待て」と言ってアルフがりんごに近づいた。「こいつは、りんごじゃないぞ」
「え?」とセリムも近づいた。「本当だ。たしかにその通りだわ」
「これはまさか……」
 アルフはそういって、頭上を見上げた。そこには、朱色に輝く月があった。
「月?」
 セリムも同じように見上げ、つぶやいた。アルフはうなずいた。
「月が反射していたんだ。地面にな」
「そんな……水面じゃあるまいし」
「いや、もしかすると、この荒野に秘密があるのかもしれないぞ」アルフはしゃがみ、地面に手をついた。「おれにはよくわからないが、もしかしたら特別な鉱石が含まれているのかもしれない。手をかざしてみろ。薄くだが、反射している」
 セリムが真似をした。
「本当だわ。もしかすると、ヤギトの町はこの不思議な鉱石によって栄えたんじゃないかしら」
「確証はできないが、おそらくその通りだろう」
 二人は立ち上がり、ゆっくりと歩を進める朱色に反射した月を眺めた。いや、りんごのような月を。不可思議で、それでいて美しい朱色の月の反射物を。いつまでもいつまでも見つめ続けた。
「ねえ、アルフ」やがてセリムが口を開いた。「この月を追いかけない?」
「……セリムがそうしたいのなら、そうしよう」
「ありがとう」
 アルフとセリムは月を追い続けた。夜が終わるまで、月が沈むまで、二人はそれを追いつづけた。荒野にはなにもなく、人はいなくなった。
 そして、たどり着いた。そこは崖の前。かつて彼が見た、底が見えないほどの崖の前だった。そこには岩があった。その手前、隠れるようにぽっかりと開いた穴があった。そこは横穴で、洞窟の入り口だった。二人は入った。月が沈むまでに、朝日が昇る前に入った。洞窟の中はひんやりとした空気が満たされ、暗かったが、月の光が差し込んでいて、ぼんやりと浮かび上がって見えていた。
「猫がいないわ」
 セリムが言うとおり、その洞窟には猫がいなかった。そして死体もなかった。金貨もなく、夢も希望もなかった。だがそこは、たしかにアルフの知っている洞窟なのだった。
「そんな話をまだ信じてるのか? こんな荒野に猫などいるものか。この世界にそんな夢のある話が存在するものか」
「……そうね。信じていたわたしが馬鹿だったわ。でも、あなたの話で救われたことは事実。感謝の念は変わらない」
「……そうか」
 アルフはセリムから顔をそらした。彼女はそれを見て、微笑み、「ええ」とつぶやいた。
 だが、洞窟には違うものがあった。それは古ぼけた小さな布着。薄汚れた、いまではただの布切れにしか見えない代物。しかし、洞窟にはたしかにそれが存在していた。
 そして、セリムは思い出す。この布を見てなにかを思い出す。いくつかの記憶の断片が、ゆっくりと、かがり火のように揺られて、戻っていくのだった。
 彼女は歩き出した。その布切れに向かって歩き出した。アルフはそれを黙って見つめていた。セリムはやがて歩みを止め、片膝をついた。優雅に、静かに、軽やかに。
「この服に見覚えがない?」
 彼女は布切れを手に取り、そのままの姿勢で振り返ってから、アルフにそれを見せた。
「……いや、ないよ」とアルフが答えた。
「わたしにはある。これは、わたしが着ていた布着、あなたとはじめて会ったときに着ていた、あの布着よ」
「そう見えなくもないが」
「これは、わたしが着ていたもの。わたしが死ぬときに着ていた、死ぬまえの唯一の持ち物」
「セリム……もしや、記憶が戻ったのか?」
「いいえ。でもわかるの」
「……そうか」
「わたしが幽霊になった理由はわからない。けれど、ここがわたしの死に場所だということは、わかる。なにより、この布着が証明してくれる」
「……おれは、前に一度ここに来たことがある」とアルフがセリムの横にきて、言った。「いつだったかは覚えていない。いつも旅をしている人間にとっては、時間なんて概念はまるで雑草のように取るに足らない存在なんだ。それはお前にもわかることだと思う。だが、おれは確かにこの洞窟に来たことがあるんだ」
「猫のことと繋がるの?」
「すこしはな」とアルフがうなずいた。「あの時、おれは彷徨っていた。雨の中彷徨っていた。そしてこの洞窟にたどり着いた。中は暗くて、何も見えなかった。だから、その布着や、ほかに何かがあったとしても、おれにはわからない。だが、人の気配が感じられなかったから、おれはそこで休むことにしたんだ。とにかくその時は、雨の冷たさから、外の寒さから逃れれば、それで良かった。不幸なことに荷物が雨で濡れていて、火を起こすことは出来なかった。それでも、おれは暗闇の中で眠り、目覚め、雨が止んでいることに気がつき、外に出た。月が出ていた。夜だったんだ。雨と眠りがおれに太陽の存在を感じさせなかったんだろう。しかしおれは歩き出した。月夜の中歩き、そして、ヤギトの町へとたどり着いた」
「それって……もしかして」
「ああ。つまり、その時にお前がおれに憑いたんだろうな。おそらく、セリムが死んでから初めてこの洞窟に立ち入った人間、それがおれだったんだ」
「でも、わたしの意識がはじめて芽生えたのはヤギトの町だったのよ? あの、あの裏通りで、あなたが見つめていたときが生まれた瞬間なの」
「おれが洞窟から出て、はじめて後ろを見たのがヤギトの町だった。後ろを見なければ、お前は存在しなかったんだ」
「そんな……」
「謎でもなんでもない。こんな単純なことだったのさ。お前がおれに憑く理由なんて」
「……そう、ね」
「外に出よう」
 二人は外に出た。洞窟から出た。外はいまだに月が出ていた。朝日は昇っていなかった。そこはまだ夜の世界、月の世界だった。アルフは崖に、断崖へと近づく。セリムもそれに倣う。崖下は見えなかった。そこは夜の空のように暗かった。アルフは横を見た。彼女を見た。セリムもアルフを見た。二人は見つめ合った。
「……思い出した」とセリムがつぶやいた。「わたしの死んだ理由。それを、思い出した」
 アルフは何も言わず、続きを待った。夜は静かで、月はあたたかく、星は煌めいていた。セリムは夜空を見上げ、にっこりと微笑んだ。
「わたしは、お母さんと共に死んだ。お母さんはわたしを、腕の中に、胸の中に、包み込んでくれていた。災いの病気にかかっても、お母さんはわたしを離さなかった」
「……セリム」とアルフが言った。しかし、それから先は何も言わなかった。二人の間に静かな時が流れた。ゆっくりとした、緩慢な時の流れ。それは旅人アルフと、憑き物セリムの、二人だけの空間だった。
 そして、アルフが腕を出し、セリムの肩に触れ、そっと抱き寄せた。それから数秒、数十秒、アルフはセリムを包み込み、セリムはアルフの腕の中に包み込まれていた。全ての謎が、こうして、解けた。
 その時だった。これが幻想と言わずになんというのだろう。
 セリムが光り輝いていた。アルフは彼女を見下ろし、セリムは彼を見上げた。セリムが数回まばたきを繰り返してから、自分の胸元へと目線を落とし、アルフから離れた。アルフの元から、離れた。
 そして光が瞬いて、夜の薄闇を白に染め上げる。セリムはその中心にいた。彼女の赤毛が、赤い月の光を受け、輝き、共鳴して、華やかに踊っていた。その全ての光の中心に彼女がいた。そして、彼女は消える。ゆっくりと消えていく。アルフはそれを、彼女がやわらかく、そしてゆるやかに消えていくのを、静かに見つめていた。この一連の流れの意味を承知した上で、彼はそれを見つめていた。
 そして、セリムが天に召されてゆく。あの高貴で、誇り高い、月の世に。
「ありがとう」とセリムは最後にそう言った。
 アルフは微笑んで、うなずき、「こちらこそ、ありがとう」と返した。
 穢れなき夢のように、鮮やかな幻影となってセリムは消えた。やがて時が経ち、荒々しく朝日が昇る。アルフは右手から立ち昇るその雄雄しい星を眺めた。こうして月の世界が終わった。これからは太陽の世界になるだろう。
 しばらくしてから、アルフが歩き出した。セリムはもういない。セリムは月の者となった。やさしく清らかで、涼しくもあたたかい、美しき月の化身となったのだ。だからもうアルフは一人だ。いつものように、遠い記憶と近しい記憶を抱きながら、歩き出すのだ。しかしただひとつ、確かなことが出来たようにアルフは感じた。だからアルフは歩き出すのだ。一人のツキモノを思い描きながら、この太陽の世界の下で、力強く、歩き出すのだ。
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