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第一章 = Chapter 1
02.
 ディアは薄暗い密林の中を疾駆した。足元の小枝や葉っぱを踏みつけて、そこを駆け抜けた。息が荒くなって、速度を落とした。ここは道なき道だ。目の前には木々が待ち構えている。ディアは枝のアーチをくぐった。光が強さを取り戻した。
 そして、ディアは空き地へとたどり着いた。ディアのホーム、家、所在地、とにかく住んでいるところ。八年前からの、ディアの場所。目の端には、丸太とベニヤでできた小屋があった。空は開けていて、青くてすがすがしい空が広がっていた。
 けどディアはそれらの光景を無視して、目の前にある、再び木が密集したそこへ、一気に飛び込んだ。そこは普段使う道ではない村への最短経路だ。だから草木がたくさんあって、地面の角度がかなり鋭かった。ディアは全身を使って、斜面を滑るように下りていった。体力ゲージはすぐに底をついた。けど構わなかった。ディアの頭の中は疑問でいっぱいなのだった。そして周りの景色が変わっていった。木々の密度が前よりかなり薄くなった。そこは村に近い森だった。道なき道から、道になったのだ。人が通る、れっきとした、道になったのだった。
 そしてディアは村に出た。視界が開けた。目の先に木の柵が張り巡らされていて、その奥には村の景色が広がっていた。斜面になった村はだんだん遠くに行くほど低くなっていき、途中で大きな川が村を分断していた。さらに奥のほうに進むと平らな草原が続いていて、その後ろには幽玄な山脈がそびえ立っていた。草原の先はここからでは見えない。再び斜面になっているのだ。
 この村こそディアが生まれ、そして捨てられた、田舎の村だった。辺陬な土地にある、山奥の、のどかな田舎村なのだった。
 ディアは息が整うまで、しばらくその村を眺めた。村はいつもと変わらない様子だ。遠くのほうでは羊がのどかに歩いているし、すぐ近くの畑では野暮ったい服装のおじさんが畑仕事をしている。右に目を移せば、ディアの知っている家の煙突から白い煙が漂っていた。
 ディアは目を閉じて、深呼吸をして、それからもう一度村を見渡した。
 やはりいつもと同じ村の景色だった。
 ディアはうなずいてから、動き出した。目の前の柵を飛び越えて、すぐそこのおじさんのいる場所まで走っていく。村はずれの柵と隣り合わせのようにある畑の真ん中あたりに、おじさんはいた。周りには緑の葉っぱがたくさんある。ディアはその隙間の、細い道のようなところを通っていった。途端にバランスを崩した。けど踏みとどまった。おじさんはディアの足音に気がついて、屈めていた腰をゆっくりと上げた。
「ん? おお、ディアじゃないか。どうしたんだね? 野菜はこのまえ交換したんじゃなかったっけか」
 おじさんは麦藁帽に手を当て、細い眼をさらに細めてディアを見つめた。おじさんの様子から、ディアは自分の考えが間違っていなかったことを知った。
「いいや、野菜なら足りてるよ」ディアの口が勝手に動き出した。「昨日は野菜スープを飲んだし、今朝はパンの付け合せにサラダを作ったんだ。うん、あれなら明日もいける。それくらいのおいしさだった」
 でもディアの頭の中では別のことを考えていた。
(マースンおじさんにはぼくの姿が見えている。ということは、やっぱりぼくは幽霊じゃなかったんだ!)
「そりゃよかった」おじさんがうなずいた。「うちの野菜はうまかったろ? お天道様からいっぱい元気を貰って育ってるからな」
「マースンおじさん、そのことじゃないんだ」ディアは首を振った。「あのさ、ぼく、変じゃないかな? たとえば、頭が血だらけとか、足が透けてるだとか」
「なにを言ってるんだ、ディア」マースンおじさんは怪訝そうな表情だ。「おまえさんはどこも変じゃないぞ? いつもどおりのやせっぽっちじゃないか」
「本当に?」
「本当だとも」
「違う違う、ダメだ。そんなのおかしいよ」やっぱりディアは納得できなかった。「なにが起きたのかわからないんだ。もしかしたら幻覚だったのかな? いいや、まさか。今までそんなことは一度だってなかった。悪いものはなにも食べてないし、なにより最近はマースンおじさん自慢の野菜しか食べてないじゃないか。それなのに、どうして? わけがわからないよ。ねえ、マースンおじさん。おじさんはどう思う?」
 マースンおじさんはやれやれといった感じで首を振り、質問に答える代わりに足元の野菜に目をやった。マースンおじさんは、ディアの疑問には無視するのが一番だと思っているらしかった。
「マースンおじさん! 答えてよ!」
 ディアが叫んだ。マースンおじさんは驚いた様子でディアを見つめた。こんな風に怒るのはディアらしくなかったのだ。だからなのか、おじさんは答えてくれた。
「それはだな、ディア。世の中にはわからないこともあるんだよ」
「それはそうさ。たとえば頭上の太陽。どうしてあんなに光ってるの? なんで動いてるの? どうして落っこちてこないの? 世の中わからないことだらけだ」
「ディア、あのなあ。そんなくだらないことを考えてどうなる? 腹がたまるかい? それがわからなくたって日はいつも昇るんだ。それでいいじゃないか」
「だめなんだ。わからないと、気が気でなくなるんだよ。知りたくてうずうずしてるんだ。ぼくはいろいろなことを知りたい。たとえば……なんでマースンおじさんは畑仕事だけをやって生きているの?」
「小さいころからそうだったからさ」
「そんなのあんまりだ!」
 ディアの怒号に呆れたのか、マースンおじさんがため息をついた。そのあと腰を屈めて、足元の野菜をチェックし始めた。真っ赤に熟した(かもしれない)トマトがちらりと見えた。
 ディアはあきらめることにした。
「ぼく、もう行くよ。ポーラおばさんによろしく伝えておいて」
 マースンおじさんの背中にそう告げて、ディアは引き返した。緑色の葉っぱの間を通って、森のほうへ向かった。
 マースンおじさんの畑は村の端っこにあって、一番大きな敷地を持っていた。だからマースンおじさんの奥さんと子供たちが仕事を手伝わなければ、畑は雑草に占領されてしまうことになる。でも今日は、マースンおじさん以外の姿は見えなかった。ディアはほっとため息をついた。
 マースンおじさんには子供が四人いた。一人は女の子、あとの三人は男の子だ。そしてディアは長男のマッシュが苦手だった。ついこの間も言い争いをしたばかりなのだ。そのときディアは、彼らと一緒になってマースンおじさんの仕事を手伝っていた。
 そして、いつものいざこざはマッシュから始まった。
「おいディア!」
 畑仕事をしていると、マッシュがそういってきた。後ろにはマッシュの弟の、ルドルフとマルコがいた。次男のルドルフはディアと同い年だ。マッシュはディアより三つ上なのだった。
「なんだよ、なにか用?」
 ディアは警戒しながら答えた。だから立ち上がることはなかった。
「どうしておまえは村に住まないんだ?」
 マッシュは下品な笑みを浮かべていた。ここがディアの嫌いなところだった。
「おい、聞いてるのかよ」
 ディアは無視することに決めた。そして目の前の雑草を引っこ抜いた。
「へへ、おれは知ってるぜ。おまえの秘密を知ってるぜ」
 突然、マッシュが歌うようにしていってきた。ディアは身を硬くした。
「このまえ村長から聞いたんだ。おまえの秘密を聞いたんだ」
 ディアが立ち上がった。考えるよりも前に身体が動いていた。
「教えてやるよ、マッシュ」ディアがいった。
「はん、言ってみな」
「ぼくが村に住まないのは、おまえの音痴な歌に耐えられないからさ」
「な、なんだと」マッシュは目を吊り上げた。
「それにいびきもひどいからな。後ろの弟たちを見てみろよ。くまができてるぞ」
 マッシュがいきなりディアの胸倉を掴んできた。
「いい気になるなよ、ディア」
「その手を離せ、マッシュ」息が詰まりそうだった。
「弱いくせに口答えなんかしやがって」
 そういって、マッシュはディアを投げ飛ばした。ディアは尻餅をついた。
「どうだ、口だけじゃないってことを見せてみな」
 その挑発に、ディアはまんまと乗っかってしまった。結果はもちろん、ディアのサンドバッグ状態だ。ディアは何度も殴られ、蹴られ、マースンおじさんに止められるころには傷だらけになっていた。一人娘のキティに消毒液をかけられるその時になっても、腹の虫はおさまらなかった。
 ディアは口元の傷をそっと撫でた。もう一週間も前のことだった。
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