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第一章 = Chapter 1
03.
 そうこうしているうちに、さっき飛び越えた柵にまでたどり着いた。今後は逆から飛び越える。固い土を踏みしめて、目の前の森に続く道を歩いた。
「ディア!」
 そこで、左のほうから声が聞こえた。ディアは顔をそちらに向けた。
 駆け足で近づいてくるのは、胸当て付きのスカートを着た女の子だった。赤毛の髪を三つ編みにしていて、その上から花柄のバンダナを被っている。大きな目とそばかすが印象的だ。手には大きめのバスケットを持っていた。そこからいい香りが漂ってきた。
「キティ、どうしたの?」ディアが尋ねた。
「それはこっちの台詞よ、ディア」
 キティがディアの前にまで来た。
「用事なら、お母さんを呼んできてあげようか?」
「ううん、違う」ディアは首を振った。
「それじゃあどうしたの?」
「ちょっと、気になることがあって」
「あら、わたしにわかることなら」
「もういいんだ」
 キティは首をかしげた。そしてうなずいた。
「大丈夫、安心して。マッシュは弟たちと一緒にどこかへ行ったから」
「マッシュなんて怖くない」ディアは唇を尖らした。
「強がり言っちゃだめよ、ディア」
「それ、なに?」ディアはキティのバスケットを指差した。
「バームクーヘン」キティはそれを見た。「お母さんと焼いたの」
「ふーん、おいしそうだね」
「食べる?」
「そうだなあ……」
「マッシュは――」
「食べるよ!」
「そう、良かった」キティが笑った。「それじゃ、お父さんを呼んできてくれる? わたしはお母さんと一緒に準備しておくから」
「わかった」
 ディアは再び柵を飛び越えた。これで三回目だ。でも四回目はなさそうだった。バームクーヘンを食べるのは家の前の庭だろうからだ。ディアは急いでマースンおじさんのいる場所へと向かった。おじさんは相変わらず腰をかがめて、トマトをもぎ取っていた。
「マースンおじさん」
「なんだ、まだいたんかね」おじさんは腰をかがめたままディアを見上げた。
「キティが休憩にしようだって」
「おお、もうそんな時間か」
「うん」
「わかった、ちょっと待っておくれ」
 ディアは待った。
「はいよ」おじさんが立ち上がった。「それじゃあ行くかね。ディアも一緒だろう?」
「うん」
 二人は歩いた。ディアが通った隙間とは反対側を歩いた。途中で右に曲がり、そのまま進んだ。ゆるりとカーブしている道の先には二階建ての家があった。レンガ造りで、赤い屋根からは煙突がにょっきりと飛び出している。手前の庭にはセージやマジョラムなどのハーブが栽培された生垣があった。その近くで、キティとその母親のポーラおばさんが白い机の上にティーカップを並べていた。
 そして二人がそこにたどり着いた。するとふっくら太った赤毛のポーラおばさんが、ディアを招いた。近づくと、軽くハグしてくる。大きな胸の中でディアはおばさんを見上げた。
「よく来たね、ディア」おばさんがにっこりと笑った。
「うん、ポーラおばさん。でも、大げさだよ」
「なに言ってるのさ。あたしは心配でしょうがないんだよ?」
「お母さん」キティがいった。
「はいはい、わかってますとも」おばさんはディアを解放した。「さ、座って座って」
 四人は座った。椅子もやはり白い色をしていた。ディアはマースンおじさんの隣で、正面にはキティが座った。おじさんの正面はもちろん、ポーラおばさんだ。
 机の上には四人分のティーカップと、お皿に盛られた焼きたてのバームクーヘンがあった。
「ん? 今日は紅茶かね」
 マースンおじさんがティーカップを見ていった。おばさんが「ええ」と答える。ディアはティーカップを手に取り、紅茶を一口飲んだ。熱かったけど、甘くておいしかった。
「どう?」キティが見つめてきた。
「うん、おいしいよ」ディアは正直にいった。「ハチミツがいい感じだね」
「えへへ、ありがと。バームクーヘンも食べてね」
 キティはお皿をディアの前に動かした。ディアはその中からバームクーヘンをひとつ手に取った。こげ茶色の丸いケーキの真ん中に、ぽっかりと穴が開いている。
 半分をぱくっと食べた。
 巨人を思い出した。
「どう?」
「え?」ディアはこんがらがった。
「あ、まずかった?」キティが悲しそうにいった。
「ううん」ディアは慌てて首を振る。「そんなことない。おいしいよ、すごく」
「本当?」
「もちろん」
「よかった」キティがうれしそうに微笑んだ。「それ、じつはわたしが焼いたんだ」
「おばさんじゃないの?」
「そうよ。びっくりした?」
 ディアがうなずこうとしたとき、突然横にいたマースンおじさんが「なんだって!?」と大声を上げた。ディアはこっちのほうがびっくりだと思った。
「これを、キティが?」おじさんはバームクーヘンのかけらを掲げた。
「そうだけど」とキティが上目遣いになる。
「さすが私の娘だ!」
 おじさんはキティを溺愛していた。だからこのあとどうなるのか、ディアにはよくわかっていた。
 おじさんはこんな風に続けた。キティはいずれ村一番の美人になる、いや、もうすでに村一番の美人だ。このまえなんかチャーリーがキティに迫ってきたぐらいだし、他のガキどもも変な目で娘を見てた。もちろんキティはそんな低俗な子じゃないから安心だが、しかしその美貌というのはキティにとっては不幸だ。それに反してキティを嫁にもらう男はこの世で一番の幸せ者に違いない。あるいはもしかすると、キティはこの村を出て貴族と結婚するかもしれないぞ。といった具合に。さすがにキティは恥ずかしそうにしていたが、マースンおじさんは熱弁をふるい続けた。
 そこで不意に、ポーラおばさんが小さく「ディア」と声をかけてきた。マースンおじさんは誰かが聞いていなくても話しを続けているみたいだから、ディアは遠慮なくおばさんに顔を向けた。
「どうしたの、おばさん」
 おばさんは神妙な顔つきでうなずくと、自分の大きな胸をぽんと叩いてみせた。
「おばさんに話してみなさいな」
「え、なにを?」ディアは首をひねった。
「気になることがあってここに来たんだって、キティがいってたよ。なにか困ったことがあるんだろう? 相談したいことがあったらおばさんに遠慮なく言いなさい」
「そのことなら心配いらないよ」ディアはティーカップを手に取りながらいった。「もう済んだことなんだ」
「このおバカさんに話してかい?」おばさんはマースンおじさんをちらりと一瞥した。「うそおっしゃいな」
「えーと」とディアは答えに窮して、ぎこちなく視線をずらしてしまう。しかし偶然にもトマトの葉が目の端をよぎって、ぽんとひらめくことができた。「そうだ、このまえ交換したトマト、熟していてすごくおいしかったよ」
 おばさんは頬をほころばせる。「あら、本当かい?」
「うん、もちろん。あ、そうだ。今度、トマトを使った肉料理を作ってみたいんだけど、どんなのがいいかな?」
「そうさねぇ、なにがいいかしら。あ、そうそう。そういえば、トマトをジャガイモスープの中に加えると、より一層おいしくなるんだよ。知ってたかい?」
 ディアは「ううん」と首を振って、ほっと胸を撫で下ろした。見事ポーラおばさんの関心を別のものに代えることに成功したのだ。
 それからディアは、のんびりとおばさんの話を聞き(「それにトマトの酸っぱさは健康の秘訣だから、ちょっとぐらい腐ってても大丈夫なのよ」)、紅茶をすすり、バームクーヘンにぱくついて、ゆったりと時間が過ぎていくのに身を任せることにした。話の内容はあまり発展しなくて、ポーラおばさんは万能トマトの有益性のことを、マースンおじさんはキティの愛らしいエピソードのことを話し続けていた。やがてバームクーヘンがなくなり、ティーポットが軽くなったころ、おじさんが話に一区切りをつけて(「そんなわけで、キティはかわいい」)、席を立った。
 ディアもおじさんに倣って立ち上がる。キティとポーラおばさんは机の上のものを片付け始めた。そしておじさんが麦藁帽子を被りなおし(いつの間にか外していた)、キティに微笑みかけてから、口笛とともに畑に戻っていった。
「ぼくも行くよ。バームクーヘンと紅茶をどうもありがとう」
 ディアもそういって歩き出した。しかし、すぐに誰かが駆け寄ってくる音が聞こえた。振り返るとおばさんがいた。キティはその後ろで、手を組んで心配そうにたたずんでいる。ディアは言葉を待った。
「何度も言うようだけどね、ディア」おばさんがいった。「本当に、一人で大丈夫なのかい?」
「あー、うん、なんとかやっていけるよ」
「いまさらなのはわかってるんだよ。けどね」
「おばさん」ディアがおばさんの話をさえぎった。「大丈夫だよ」
「そう」おばさんは目を伏せた。けれど、すぐに戻した。「なにか困ったら、すぐにおばさんのところに来るんだよ? 村の人たちのことなんか、考えなくってもいいんだからね。あたしたちはディアの味方なんだから」
「ありがとう、ポーラおばさん」
 ディアはうなずいて、再び森のほうへと足を動かした。それからポーラおばさんはもうなにもいってこなかった。だからディアも振り返ったりはしなかった。
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