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第一章 = Chapter 1
04.
 幅の狭い道。右や左にカーブしたその道は、先に進むにつれて角度が鋭くなった。周りには杉の木やもみの木、けや木にむくの木と、様々な樹木が連なっている。地面はふさふさとした夏草が生い茂り、空は梢に阻まれてよく見えなかった。ディアはゆっくりとその山道を歩いていた。
(うーん)とディアは考えた。
 マースンおじさんの家にはすごく助けてもらっていた。もう十三年ぐらい前から、つまり生まれてからずっと。
 ディアに両親はいない。ずっと前に死んでしまった。それがいつのことだったか、ディアにはわからなかった。物心つくときには、もう二人はいなかったのだ。ポーラおばさんがいうところによると、母親はディアを生んですぐに死に、それから父親があとを追うようにして死んでしまったのだそうだ。
 だから、ディアはマースンおじさんの家で育った。生まれてから、五つのときまで。追い出されるその日まで、ディアはそこで暮らしていた。
 そして、ディアは思っていた。そのときからなんとなく思っていたのだ。村の人間は愚かで、自分とは違うと。だから、あの事件を引き起こした。そしてディアは、そのことに全く後悔していなかった。
(でも、おじさんたちはいい人たちだ)
 追い出されたあと、マースンおじさんとポーラおばさんがディアの様子を見に来てくれた。食料や水を持ってだ。おじさんたちは何度も謝っていた。しかも二人は、罪滅ぼしだといって小屋の作り方を一通り教えてくれたあと、それを一緒になって作ってくれた。でも、ディアはそのときのことをよく覚えていなかった。八年も前のことだし、いろいろと嫌なことがあったから、意識的に思い出さないようにしていたのだ。
 そしてそれから、何日も過ぎた。一年が過ぎた。二年が過ぎた。ディアはすごく成長して、やがて狩をし始めた。トラップを仕掛けて、イノシシやシカなどを捕まえるのだ。村の人たちはそういうことをしないから、捕まえたそれらの肉は貴重なものだった。だからディアはその肉をマースンおじさんのところへ持っていき、野菜類と交換してもらっている。この間だって捕らえたイノシシと交換に、マースンおじさん自慢の野菜を大量にもらっていた。けれど、他の村人たちとの交流はなかった。あったとしても、ほんの少しだけだ。
 そしてディアは、その少しだけのことを思い出すと、いつもため息をついてしまうのだった。
(どうしてあの村の人たちは、あんななんだろう)
 たとえばそのはじまりは、村に住む粉引きのジャックからだった。
「みなさん! 知っていますか?」
 水車小屋の周りに、大勢の村人たちが集まっていた。ディアはたまたまマースンおじさんの家に遊びに来ていて、しかも、キティと一緒にお使いの途中だった。だから粉引きジャックの演説に遭遇した。偶然の一致だった。
「この世界には大きな大きな水溜りがあるという事実を!」
 キティが興味を持ったのか、その群衆に近づいた。ディアは気乗りしなかったが、一人でいるのは心細いので、すぐに彼女のあとを追った。みんなはディアがいることに気がつかなかった。
「知ってるとも! そいつは海ってんだ!」
 誰かがそう叫んだ。
「聡明な村人諸君! では、その海には何が住んでいると思いますか?」
「魚さ!」と今度は違う人が答えた。
「ご名答! しかしですねえ、こんな話を知っていますか?」粉引きジャックは得意げに笑みを浮かべた。「ある野蛮な海賊たちが、立派な船に乗って海を渡っていたときのことです。そこでどこからか、とてもきれいな歌声が聞こえきました。その歌声は優しくてあたたかくて、心がほっとするような、そんな素敵な声でした。するとどうでしょう。その歌声によって野蛮な海賊たちが涙を流し始めたのです。傷だらけのハートを癒したんですね。それくらいの素晴らしい歌声でした」
「それでそれで?」子供の声が聞こえてきた。まだ四歳か五歳ぐらいの声色だった。
「しかしそこで」と粉引きジャックは群集を見渡した。「なにやらおかしな物音が聞こえてくるではありませんか。歌声を邪魔する奇妙な音。いわば雑音です。だから海賊たちは涙を拭いて、およよ、といった顔になります。こりゃあ、なんの音だ? ってね。しかしそのときです。いきなり、爆発音が炸裂しました! それはいったい、どこから? そうです。下から、船の下からです! でも、海賊たちがそれに気がつくことはありません。なぜなら――」
「なぜなら?」全員が息を呑んだ。
「船が、真っ二つに割れてしまったからです! 真ん中から、ぼきっと! 頑丈な竜骨もろとも、真っ二つです! もちろん、海賊たちは悲鳴を上げました。しかし無情にも二つになった船は海の中へと沈んでいきます。そして海賊たちも、やはり船もろとも暗い海の中へ、冷たい海の中へと沈んでいきました。そのときです。そのとき、海賊の一人があるものを目撃しました。死ぬ間際、沈む間際、つまり、ほんの一瞬の出来事です! まばたきをするくらい短い時間ですよ。そしていったい、彼はなにを見たのでしょう。驚くなかれ、それは美しい女性でした。長い金髪、マシュマロのようなおっぱい、きゅっとくびれたウエスト。まさに、絶世の美女! この世のものとは思えないくらいに美しい女性が、すぐそこの海に浮かんでいたのです! 彼は自分の目を疑いましたが、しかし、そんなことを考える時間はありません。だって、すぐに水の中へと沈んでいくんですからね。しかし、彼はそれでも海の中からその絶世の美女を眺め見ました。そして、彼は知ることになるのです。彼女の、正体を」
 粉引きジャックは全員を見渡した。ディアと目が合った。でもディアに気がつく様子はなかった。ジャックは続けた。
「皆さん、なんだと思いますか? いやはや驚くなかれ。なんと彼女の足が、尾びれだったのです!」
 ジャックがそう高らかに叫んだのに、みんなの反応はいまひとつだった。ジャックは目を丸くし、群集を見つめ、ため息をついてから、「人魚ですよ」と付け加えた。「彼女は噂の、マーメイドだったんです」
「なんだその人魚ってのは」誰かがつぶやいた。
「人魚の歌声は船を沈めるんです。昔からある噂話ですよ。つまり船が沈んだのは、彼女のせいだったんです」
「海にはそんなのがいるのかい」誰かがつぶやいた。「不思議だねえ」
 ディアは辺りに目をめぐらせた。みんな不思議そうな表情だった。
「事実ですよ」ジャックが神妙な顔つきになった。「これはれっきとした事実です」
「会っちまったらどうすりゃいいんだよ。え? 黙って死ねってのか?」
「ええ、その通り」
「そんな理不尽な」
「おいおい、おれ達には関係ないじゃないか」誰かが笑った。「なにせ、この村には海なんかありゃしないからな」
「それもそうか」
 誰かが答えた。そしてみんなが笑った。横を見ると、キティも笑っていた。しかしディアには納得がいかなかった。
「そんなのデタラメだ」
 ディアは思わず声を上げてしまった。全員がこちらを向いた。ディアを見て、ひそひそ話が広がった。ディアはそれを無視して続けた。
「人魚だなんて、そんな馬鹿な話があるもんか。そもそも、海賊たちは全員死んだはずなのに、いったい誰がいったんだよ、その話。死んだ人間に口はないぞ。だからこんな話が伝わってること自体がおかしなものなんだ」
「ええ?」ジャックは目を丸くした。「そりゃあ、うん。でも、これはライン海に伝わる由緒あるお話でね。ぼくも聞いただけなんだけどさ」
「そんな非現実的なことが起きるわけがないよ。船が真っ二つ? まさか。ありえないね。それは単なるおとぎ話さ」
「人魚の力を疑うってのか?」ジャックがいった。不機嫌そうだ。
「ディア」キティがディアの服を引っ張った。「行きましょう」
「いきなり家が割れるのと同じようなことだよ」ディアはなおも言い張った。
「もう、いいじゃない。ね? ディア」キティは無理やりディアを引っ張った。
「ダメだよ。それが本当に起こりえるのか、試してみるんだ」
「帰れよ、ディア」ジャックがいった。「ここに君の居場所はない。帰れ」
「そうだ、帰れ帰れ」誰かが同調した。
「どっか行けよ、ディアのばか」聞き覚えのある、四歳か五歳ぐらいの声色がいった。
 そして、ディアはキティと一緒に家に戻った。もちろんマースンおじさんの家だ。村外れの、レンガ造りの家。お使いは忘れていた。だからキティは再び村の中に向かった。しかしディアは逆の方向に、つまり森のほうへと向かった。自分の居場所へと、帰るために。
 それは、もうずいぶん前の話だった。
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