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第一章 = Chapter 1
05.
(どうして、事実を探ろうとしないんだろう)
 ディアはもう一度ため息をついた。そして腹が立ってきた。足元の小枝を踏みつけて、ぽきっと鳴らしてやる。けど、何も変わらなかった。
 そこで、周囲がいきなり明るくなった。小道が終わり、目の前に大きな空間が現れたのだ。空が一望できる空き地。八年前のあの日、ディアの心細い気持ちを一掃した夕焼けが見えた場所。ディアのホームだ。ディアは気持ちを入れ替えるように、そこを注意深く観察することにした。
 正面にはディアの丸太小屋があった。屋根はすらっと勾配型で、空気を逃がす隙間穴が見える。壁は丸太の丸みでぼこぼこしていて、その間には小さな虫が張り付いていた。おんぼろ小屋だ。ディアはそう思った。
 視線を変えた。
 空き地には木がなかった。杉の木やもみの木といった樹木がなかった。代わりにあるのは、きのこが生えた切り株と、しぶとい雑草ばかりだ。それらの間に地面の茶色が見えている。そしてその上には枯れ木が散らばっていた。木の残骸だ。
 頭上に目を移せば、そこには真っ青な空が広がっていた。白い薄くもが効果的に青を装飾している。太陽はまだかなり高い位置にあった。澄んだ空気がディアの周りを漂っていた。
 気が静まってきた。穏やかな感情に戻ってきた。ディアは深呼吸をした。
 それから、小屋に向かって歩き出した。何度も踏み均しているので、道が出来上がっている。歩きやすかった。小屋の前に来ると、扉に芋虫が張り付いているのが見えた。ディアはそれを無視し、扉を開けて、家の中に入った。中は意外と清潔だった。ベッドや机などの家具が揃っていて、奥の壁には調理器具が掛けられている。右を見れば、いびつな形の棚がどんと陣取っていた。棚の上にはこれまたいびつな形の土器が数種類置かれていて、中にはにんじんのピクルスや燻製肉が入っているはずだった。
 ディアは机の前の椅子に座った。ぎしぎしと音が鳴った。けど壊れる心配はない。なにしろディアは、別の椅子で何度も尻をぶつけていて、それに対する研究を熱心にしたからだ。この椅子は折り紙つきなのだった。
(どうしようかな)とディアは考えた。(晩御飯は、いらないかな。バームクーヘンでお腹も膨れたし、昼にはいっぱい食べた)
 この地方では、夕食より昼食のほうを多く食べるのだ。だからディアは今日もその習慣を守っていた。
(のど、かわいた。紅茶、甘かったからだ)
 そこでディアは立ち上がった。小屋の中にある大きな水釜を見る。空っぽだ。ディアはため息をついて、外に出た。それから右手に向かって歩き出した。その先には細い小道があった。小道というよりは抜け道といったような体裁だ。木々の間の、雑草のない、少しだけ歩きやすい道。それが川に続く道だった。
 ディアに井戸を作る必要はなかった。一応井戸の原理は理解していたけれど(おじさんの家の横には井戸があるのだ)、すぐ近くに川があるのだし、一人で暮らしていたからそんなに量もいらなかったのだ。ディアは井戸を作る労力より、大きなつぼに水を汲みにいくという労力のほうが効率的だと踏んでいた。
 木々の間を抜けてしばらく行くと、先のほうから川のせせらぎが聞こえてきた。虫たちの奏でる音楽も一緒で、それらが徐々に大きくなっていった。
 そして小川の岸辺に出た。視界がぱっと明るくなる。目の前の川は、向こうの岸まで大人三人分ぐらいの幅だった。そこは小さな川だった。
 イルの小川。
 ディアは、この川をそう名付けていた。村にまで続いているこの川には、名前がなかったのだ。だから村人たちからは、「ただの川」と呼ばれていた。この川はとても小さく、村には他の大きな川が存在するため、あまり意味がない川だと考えられているのだ。ディアにとってもそれは同じことで、この川のことは特別気にも留めていなかった。しかし今では、この川はイルの小川なのだった。
 それはディアがイルの古木を見つけた数ヵ月後のことだった。いつものようにディアがイルの古木でうたた寝をしていると、ふと水が飲みたくなった。普段なら空き地のほうにまで戻るか、もしくは気にしないことにしていたのだが、そのときなぜかディアの冒険心が刺激された。あるいはそれはいつものことで、それまでイルの古木周辺を見てまわっていなかったほうが不思議なくらいだったのだ。
 そんな風に気まぐれで始まった探索を続けていると、不意に水が流れる音が聞こえてきた。ディアはしめたと思って、音が聞こえるほうに向かっていった。道なき道を歩くのはもうお手の物なのだった。
 そして、ディアの目の前に大きな壁が広がった。木々が無くなったところに、他の木々と同じくらいの高さの崖があったのだ。そしてそのふもとには小さな水溜りがあった。崖の隙間から冷泉が流れ落ちてきているのだ。ディアはその光景に驚いて、しばし言葉を失った。あの空き地で夕焼けを見たときと同じような気持ちだった。
 それが、この小川の水源地なのだった。イルの古木の近くに、見たことのないような崖が存在している。それだけでも驚きなのに、そこから流れる水が川になって、ディアの空き地近くを通っているのだ。ディアはこれらになんらかの関係性があると感じて、この小川の名前をイルの小川と名づけた。
 イルの小川とは、そういう経緯で出来た名前だった。
 ディアは目の前の小川をしばらく見つめていたが、やがて思い出して、そこに近づいた。川のほとりでしゃがみ、川面に顔を近づける。透き通った水の上に幼い子供の顔が映った。ディアはあらためて自分の顔を眺めてみた。
 肩ほどまである栗色の髪。茶色の大きな目。薄くて小さな唇。そして、マッシュに殴られた傷跡。どこも異常はなかった。いつも通りの自分だった。
(じゃあ、あの巨人は?)ディアは小さな手で自分の顔に触れた。(あの巨人は、いったいなんだったの? ぼくを食べたんじゃなかったの?)
 ディアは首を振った。
(まさか。どうかしてるよ。この世に人魚がいないように、巨人だっていないんだ。いるはずないだろ?)
 ディアは手のおわんに水を汲んで、ざぶざぶと顔を洗った。冷たくて気持ちがよかった。疑問を洗い流してくれそうな感じだった。
(でも)とディアはうつむいた。(ぼくは見た。あの大きな生き物を。毛むくじゃらの、あの大きな人に。イルの古木で、出会ったんだ)
 自分の目で見たもの以外はなにも信じない。ディアはいつもそう考えてきた。だから混乱していた。信じられない気持ちでいっぱいだった。
 ディアはもう一度水を汲んで、でも今度は口を近づけて、飲んだ。
 そして、空を見上げた。
「わからないよ」
 ディアはそっとつぶやいた。
「わからないんだよ、イル。ぼくにはわからない。いったいあれは、なんだったの?」
 誰も答えなかった。
「……巨人は本当にいるんだね、イル」
 ディアはしばらくそこで空を見続けた。もう日は沈みかけていて、空は赤く輝いていた。時折、クロウタドリが視界に入った。真っ黒のその鳥は、なぜかディアの心に深く沈み込んでいった。でもディアは、その理由がわからなかった。小屋に戻るそのときになっても、わからずじまいだった。
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