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第一章 = Chapter 1
06.
 黒パンとチーズをかじりながら、ディアは小屋の前の切り株の上に座って空を眺めていた。きらきらの星空が空一面に広がっている。黒のような青のような不思議な色合いの中で輝く小さな星たち。ディアはなんとなく手を伸ばしてみた。けれど指先はなにも触れることが出来ない。
(星ってどれくらいの高さにあるのかな)
 この疑問はずっと小さいときからの疑問であると同時に、いつまで経っても解明されない疑問でもあった。太陽や月の疑問と同じ種類のものだ。ディアはもう一度星にさわろうと手を伸ばした。
 そこへ一陣の風が通り抜けた。ディアは身震いして、思わず手を引っ込める。それから足元のたき火に目線を落とした。火が揺らめいている。そして爆ぜた。ぱちっと。
 ディアは星空のことを頭から切り離して、パンの最後の一切れをチーズと一緒に口の中へと放り込んだ。もぐもぐと咀嚼して、ごくりと飲みこむ。ろくな味はしなかった。
 結局、ディアは晩飯を食べていた。なんだかんだいっても、やっぱり食べるのだ。今日の仕事内容は古木側の森に入って、獣がトラップに引っ掛かっていないかどうか見てまわるというものだった。収穫はなかったけど、エネルギーはずいぶん減った。昼食と間食だけでは腹の虫が鳴ってしまうのだ。
 火が爆ぜた。ディアは赤く燃えるそれを見つめた。吸い込まれそうなくらいきれいな色をしている。ディアは手をそれに近づけた。指先から温まった。また風が吹き抜けた。火が消えそうになった。ディアは慌てて脇にある薪を放った。
 そのとき、遠くのほうから物音が聞こえてきた。ディアは視線を村のほうへと移した。黒い森の輪郭に、うっすらと赤い線が走っている。耳を澄ませた。なにやら騒いでいるようだ。
(ビールを飲んでるんだろうな)
 ディアはその場面を想像した。
 顔を赤くした男たちが白ビール(または黒ビールか黒白ビール)を掲げて、踊っている様子が浮かび上がってきた。そこにはマースンおじさんもいた。柄にもなくステップを踏んでいる。その後ろでは、女たちが白ワインを飲みながら語り合っていた。そっちにはポーラおばさんがいた。楽しそうだった。
 でもディアはちっとも楽しい気分じゃなかった。
 目線を頭上にやって、ふたたび星空を眺めた。
(あ、流れ星だ)
 その通り、流れ星が右から左へと流れた。すぐに消えてしまった。
(運がいいな)
 ディアは微笑んだ。
 でも気分は暗かった。ブルーだった。
 目を閉じ、もう一度耳を澄ました。村から聞こえる物音は意識的に排除した。
 聞こえてくるのは、森の息吹だった。風が木の葉を揺らす音。川が流れる音。ふくろうやコオロギが鳴く音。獣たちが歩き回る音。いろいろな音が聞こえてきた。心地よかった。ディアは目を開けて、たき火に目を移した。
(そろそろ寝ようか)
 薪の量を調節して、火力を落とした。火箸を使って燃え残っているかたまりを中央に寄せた。やがて、薪が真っ白い灰になった。ディアは立ち上がった。
 そのとき、自分の名前が呼ばれた。小さな声だった。だからディアは気のせいかと思って、構わず小屋へと向かった。
「ディア」
 今度ははっきりと、背後から聞こえてきた。つまり村側からだ。だれだろうとディアは振り返った。
「マッシュ?」
 村へと通じる細い道のすぐそこに、三人の子供の姿があった。背の高いマッシュの後ろには、腰巾着のルドルフとマルコがいる。その二人はなにやら注意深く辺りを探っていた。
「なんでここに」
 ディアは慎重に尋ねた。マッシュがここへ来ることなんて、数えるほどしかない。それも、マースンおじさん(かポーラおばさん)に連れられてだ。だから、いまのように子供たちだけで来るなんて信じられないことだった。
「ちょっとな、おまえに用事があったんだよ」
 マッシュはそういうと、ディアの近くまで来た。月明かりで、マッシュの顔が赤いことがよくわかった。酒を飲んでいるな、とディアは思った。
「用事って? なにかあったの?」
「いいや? なにもないぜ?」
 マッシュはなぜか笑っていた。嫌な予感がした。
「だったらなんだよ」
「あー、いや。ちょっとさ」マッシュは後ろの子分たちに目をやった。「おまえに謝ろうかな、なんてさ。思ったんだよな」
「あやまる? ぼくに?」
「そう、ディアに」
「なんで?」
「ほら、あれだよ」
「あれ?」
「この前、おまえをぼこぼこにした件」
(件だって。変なの)とディアは思った。けど口には出さなかった。
「お袋に言われてさ。あやまって来いって。だから、来た」
「ふーん」ディアはポーラおばさんの顔を思い描いた。
「それでさ、ちょっと来いよ」
 マッシュが左のほうに身体を動かした。川のない方向だ。
「おい、早くしろよな」ルドルフがいった。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
 ディアは慌てて後を追った。なにがなんだかわからなかった。けど、とりあえずついていくしかないと思った。深くは考えなかった。驚いてそんな余裕がなかったからだ。
 マッシュとその家来たちはずんずんと先へ進んでいった。向かったのは、村側の道のない場所だった。つまり木々に覆われた藪の中。そしてディアが昼間駆け下りた場所とは正反対のところだった。三人に倣ってディアもそこに入ると、とたんに暗くなるのが分かった。月の光が木に遮られたのだ。
 マッシュたちは少し急な斜面をするすると滑り下りていく。ディアはそのあとをひたすら追いかけていった。三人とも運動神経が抜群だ。ディアはその反対で、全くだめな性質だった。すごい運動音痴なのだ。だからついていくだけで一苦労だった。もうすでに息が上がっていた。昼間とは勝手が違うのだ。暗くて足場がよく分からないのだった。
 しばらく行くと、下のほうになにかが見えてきた。そこだけやけに黒っぽく見える。もっと近づくと、それが小屋だとわかった。木と木の間に足場を作って、その上に乗っかっている布製の小屋だ。その手前まで来て、マッシュたちがゆっくりと速度を落とした。ディアも足を止めた。膝に手をつけて、呼吸を大きく繰り返した。大分落ち着いてきた。顔を上げた。
「へへ、おれたちの秘密基地だぜ」
 マルコがいってきた。マルコはディアの一つ下だ。でも笑い方やしゃべり方がマッシュにそっくりで、ひどく下品な奴だった。
「マルコ!」と、急にルドルフが怒鳴った。
「まあ、いいじゃないか」マッシュが珍しく大人なところを見せた。「それで、ディア。あんときは悪かったな、つい実力を見せちまった」
「え?」とディアは口を開けた。
「なんだよ、まだ怪我のあとが残ってるじゃないか」
 マッシュがディアの唇を見ていった。ディアは咄嗟に手で隠した。
「そのお詫びにだな、おれたちのとっておきを見せてやろうと思ったんだよ」
「とっておきって……これが?」ディアは目の上の秘密基地を眺めた。「なんとも素敵なところだね」
「おう、その通りよ」マッシュはディアの皮肉に気がつかなかった。
「で、それだけのためにぼくのところへ来たの?」
「違う違う、ちょっとこっちへ来てくれよ」
 とマッシュは、向こうのほうへと歩いていった。木の間、秘密基地の下あたりだ。ディアは怪訝に思いながらも、後を追った。マッシュは視線を下にやりながら、慎重に進んでいた。そして、振り返った。なぜか微笑んでいた。
「さ、早く来いよ。秘密基地の中へ案内してやるぜ」
 ディアは歩いていった。ゆっくりゆっくり、歩いていった。
(なんだろう、すごく嫌な予感がする)
 ディアは立ち止まって、考えた。ここへ来てようやく深く考えた。マッシュたちがなぜこんな夜更けに自分のところへ来たのだろうと考えた。
 振り返った。ルドルフとマルコは周りをしきりに見ていた。何かを警戒するような感じだ。ディアの視線に気がつくと、慌てて姿勢を正した。おかしかった。
 マッシュを見た。腕を組んで待っていた。
 はっとなってひらめいた。
(さっき、マッシュが慎重になって地面を見ていた。それに、キティが昼間言ってたじゃないか。マッシュたちはどこかへ行っているって。もしかしたら、この秘密基地に来て準備していたのかもしれない)
「マッシュ」ディアは目の前の少年を睨んだ。「おまえの考えはすべてお見通しだ」
「なに?」マッシュは目を見開いた。「なんだよ、なにがいいたいんだ」
 ディアは相手の表情を見て確信した。
「すぐそこに、落とし穴があるって――」
 どん。
 ディアは押された。前のめりになって、倒れそうになる。
 ディアは反射的に両手を前に伸ばした。草で覆われた場所へ。
 不自然な形の、地面へと。
 ずぼりと突き抜けた。
「に、逃げろ!」
 マッシュの大声が聞こえた。けどディアの視界は真っ暗だった。
 落とし穴へ、真っ逆さま。ディアは暗い穴の中へと、吸い込まれた。
 どしん、と硬い地面に叩きつけられた。ぼきっと、嫌な音が響き渡った。
 痛みで意識が飛びそうだ。目から涙が出た。ディアの視界には暗い地面の壁しかなかった。ひどい耳鳴りがした。光はどこにもなかった。すべてが霞んできた。
 力が失われて、身体が転がった。光が見えた。でも意識は消えかかっていた。
 そして、巨人の顔が見えた。
 大きな口。ぼうぼうと生えたひげ。コガネムシのような、まん丸お目目。
 昼間の、あの大きな人だった。ディアの客人の、あの人だった。
(……あなたは、だれ?)
 ディアは消えかかっている意識の中でつぶやいた。心の中で、小さくつぶやいた。
 だからその問いには誰も答えなかった。
 巨人は黙ってディアを見つめていた。その意識が消えるまで、ほんのわずかな時間を、巨人は静かに、ディアを見つめていた。
 そしてその大きな人は、姿を消した。
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